SSブログ

●今、サンマ豊漁、「飽きるほど食べてほしい」という意見について、動物愛護団体はどう感じるべきか? [「言葉」による革命]

●今、サンマ豊漁、「飽きるほど食べてほしい」という意見について、動物愛護団体はどう感じるべきか?

末尾ルコ「社会観察の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

今年はサンマが豊漁だと報道されているが、NHKニュースの一つで漁業関係の業者の人が、「飽きるほど食べてほしい」的なことを言っていて、もちろんその人物を非難するつもりは毛頭なくて、至極真っ当なことを言っているのではあるけれど、わたしは思うのである、

(飽きるほど食べてほしいって・・・魚には動物愛護精神は適用されないのか?)と。

いや別にわたしもここで声高に、「魚にだって、命はあるんだ!守ろう、魚の命も守ろう!!!」と声高に叫びたいわけではない。
ただ常日頃、「イルカは人間に近いから大切だ!」とか、「この動物(あるいは昆虫など)は、絶滅危惧種だから大切にしよう!」とか、「パンダが妊娠して大騒ぎ」とか、「カルガモ親子の大行進(←古い 笑)」とか、「鳥に矢が刺さってて、可哀そう」とか、いやもちろんそれぞれ間違ってはないのだろうけれど、その傍ら、「飽きるまでサンマを食べよう」とか「釜揚げシラス丼で大満足」とか・・・一杯の釜揚げシラス丼に一体どれだけの命が含まれているかに想いを馳せれば、「命によっての対応の違い」に首を傾げてしまうし、「矢の刺さった鳥さん可哀そう!なんと酷い動物虐待だ!」というのも間違ってはいないけれど、じゃあ毎日日本中でどれだけの日本人がどれだけの「串に刺さった鳥さん」を食べているかは問われないのか・・・という疑問は生じる。

要するに、動物愛護とか「自然を守ろう」とか、「絶滅危惧種を守ろう」とか、すべて間違ってはいないと思うのですね。
しかしその線引きが実に恣意的で、ちょっと突っ込んで考えるとお話にならないことが多い。
「矢の刺さった鳥(あるいは他の動物)」を見て「可哀そう~~!」なんて、それは確かにそうだし、鳥に矢を射るなんてとは思うかもしれないけれど、こうしたものは実は「テレビの視聴率稼ぎ」の一端にのせられているだけだと誰もが知っておくべきなのですね。
「矢の刺さった鳥がその時代の殺伐とした雰囲気を象徴していた」なんてのは後付けの出鱈目な物言いであって、メディアや「識者」などが自分らを権威付けたいだけなのです。
この件だけではないですが、後付けの「社会ヒヒョー」とかにはロクでもないものが多く、もちろんそれらをすべて文学の一環とするならば、読んでおもしろければそれなりの価値はあるのだけれど、あたかもそれが「真実」であるような書き方は、「すべて嘘」と断言してもいいでしょう。

まあ何と言いますか、書き加えておきますと、「絶滅危惧種を守れ!」とか、その他その手の活動って、どうも人間がやることとしては、「おこがましい」ような気がするのです。

nice!(25)  コメント(2) 
共通テーマ:アート

nice! 25

コメント 2

いっぷく

「食べるため(生き残っていくため)」と「愉快犯的に危害を加えるため」では目的(価値)が違う、という建前なんでしょうね。
たとえば、「飽きるほど食べてほしい」という人は、捕鯨反対などはしないでしょう。
でも、マスコミがそう言っても、朝日新聞珊瑚記事捏造事件のようなものがあると、説得力を失いますね。あれは象徴的な出来事で、おそらく仕込み・やらせはTV番組では当たり前のように行われていて、私が「ジェネジャン」出演を断った理由である「賛成も反対も極論にしろと事前に申し渡す」のも、その一環でしょうね。

「24時間テレビ」の批判について私がブログ記事を書いたとき、ほとんどの方は批判していましたが、一部にはやはり、障碍者の夢を手助けする感動を否定すべきではないという意見がありました。
その「夢」は私は論点としておらず、本当に「夢を手助け」なのかどうか是非は改めてきちんと議論すべきものとおもいましたが、要するに、とにかく根拠は二の次で感動をしたい人がいるから、ああいう番組があるのだな、ということはわかりました。
そういう「感動する私って優しくてステキ」という考え方と、動物愛護とか「自然を守ろう」とか、「絶滅危惧種を守ろう」とかいったキャンペーンは、親和性が高そうですね。

>関口宏がこうして映画へ出ていたというのが何とも不思議感があります(笑)

昨日の関口宏のカレーの話は、かつやの話が終わってしまったのでまさに余談だったのですが、よく考えてみると、関口宏が俳優であることを当たり前に捉えている自分は昭和で時が止まっていて、他の方は、今の司会者としての関口宏と結びつけることができず、「この人だれ?」だったかもしれません。
子供の頃の印象として、俳優関口宏は、早口でよく喋り、知識もあって機転が利くような振る舞いだったので、少なくとも晩年の佐野周二とはイメージが違いました。
立教はアナウンス研究会があって、学生時代から活躍していた土居まさるなどが刺激になったのかなという気がします。弟の、あの佐野守のような棒読みで見るものをハラハラさせる芝居ではなかったですが、若いうちに(社長シリーズに出ていた1970年ごろ)スター千一夜の司会の仕事が来たので、その頃から司会の仕事にシフトしようというのは考えていたのかもしれません。

>樹木希林が大腿骨折時に危篤状態となっていたという報道がありました。

樹木希林が朝日新聞に寄せたメッセージというのがトピックスで出てましたね。
「だから、9月1日がイヤだなって思ったら、自殺するより、もうちょっとだけ待っていてほしいの。そして、世の中をこう、じっと見ててほしいのね。あなたを必要としてくれる人や物が見つかるから。だって、世の中に必要のない人間なんていないんだから。/ 私も全身にガンを患ったけれど、大丈夫。私みたいに歳をとれば、ガンとか脳卒中とか、死ぬ理由はいっぱいあるから。/無理して、いま死ななくていいじゃない。 」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180730-00000006-withnews-soci
たしかこの方は、若い頃は、死について怖くない、淡々と受け入れるというようなことを言っていて、今それが全面的にひっくりかえったわけではないのですが、歳をとって病気をしたことで、「生」への執着のようなものも時々率直に語るようになりました。樹木希林は、きっと本当に生死ギリギリの経験をして、それによる心境の微妙な変化を吐露したのだと私は好感を抱きました。

私が批判的に挙げる「平穏死」、年をとったら無理に生かすなというようなことをいい、人によっては、私は食べなくなったら死なせてくれていい、生きることに執着はないからと仰るんですが、私は、それは「虚偽」と断罪こそしませんが、リアルな答えではないとおもっています。
なぜなら、本当にそうなった上での心境ではないからです。人間なんて、経験で心境は変わります。
私の母は、食べなくなって入院したとき、胃ろうや経鼻輸液を拒否したので、医師は平穏死を事実上勧めました。ところが、退院して食管理と口腔の掃除をしたらまた食べるようになって、点滴もとれて普通に暮らせるようになったら「(生きることに)欲が出てきた」と言うのです。ああ、平穏死させないでよかったとおもいました。
他の方のブログを巡回しても、「がんもどきの先生は正しい」と頑張っていた人が、自分の配偶者ががんになったらあっさり手術をしているんですね。がんもどきの先生は、手術はもとより健康診断すらも否定していたはずです。でもきっと手術適応がある(つまり手術すれば治る可能性がある)となると、過去の自分の信念に反することでも選択してしまう。人間なんてそんなもんじゃないでしょうか。もちろんそれは悪いことではなくて、ただ、そういうものだから、あまり「今の自分」に自信満々にならないほうがいいよとはおもいました。
by いっぷく (2018-09-01 02:31) 

hana2018

サンマ豊漁につき・・・「飽きるほど食べてほしい」・・・の意図するところは理解出来るものの、だからと言って飽きる程食べられるほど安く提供される訳もなく、価格的には例年通りで落ち着くのではないでしょうか。
元々焼くか、煮るも時にはするものの、そう食卓に上がる食品とは思えないサンマですもの。ホントマスコミって、なんでもオーバーなんですから(笑)
イルカやクジラを特別なものとヒステリックな程声高に、自分達の主張を通そうとするグループの行動には、毎回ウンザリさせられます。
我々日本人が、ろくにお米も食べられずに雑穀を食べていた頃。
大量の小麦をエサに牛や豚を育てて、その肉を大量に食し、馬を乗り回していたのはどうなのだろうか?
動物愛護運動に興じる欧米人達が、かつて防寒着としていたのは動物の毛皮です。それ以降も4~50年前までステイタスとして毛皮を纏うファッションは当たり前であった。
ハリウッド女優の中にも毛皮反対=「自称リベラル」と言った風潮が見られるのは、いい気なもんだとしか思えずにいます。
日本食や寿司にしても健康志向と共にここまでブームになったものの、それまでは一段低い食べ物とされてきた訳ですしね。
by hana2018 (2018-09-02 00:19) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。