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●『君の膵臓を食べたい』『潔く柔く』『覆面系ノイズ』だけじゃない、日本映画に氾濫する「号泣・絶叫シーン」で満足する「若い人たち」の感性を検証する。 [「言葉」による革命]

●『君の膵臓を食べたい』『潔く柔く』『覆面系ノイズ』だけじゃない、日本映画に氾濫する「号泣・絶叫シーン」で満足する「若い人たち」の感性を検証する。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

「感動」という言葉、昔からあまりに容易に使われ過ぎてますよね。
ま、わたしもこの言葉、使わないでもないけれど、しかし極力使わないようには気をつけている。
あまりに漠然としているというもあるし、なにせ濫用され過ぎている。
「感動」という言葉自体に罪はないのですがね。
そして、「何に対して感動してきたか」で、まあちょっと意地悪な言い方にはなるけれど、「その人がどういう人か」、かなり分かるのですね。
「すべて分かる」とまでは言いませんよ。
そして、(あ、この人のレベルが分かった)と高を括った人のレベルが低かったら、「分かった」こと自体が見当外れだったなんてこともよくあります。
「レベル」っていう言葉も敢えて使いましたが、実は危険な言葉なんですよね。
大雑把に使うべきではない。

と、お話は込み入ってきますので、「感動」という言葉に戻りますと、おそらく昨今の

「俳優がクライマックスで号泣・絶叫で、さあ、泣いてくださいよ、泣けますよ、涙活ポイントはここですよ!」

という映画を観て本当に泣いている人たちはきっとそれを、「感動」と思っているのだおるなと、それでいいのかな、いや、いけない、と主張したいわけですわ。

まあ最近観た日本映画をいくつか挙げてみても、
『君の膵臓を食べたい』
『潔く柔く』
『覆面系ノイズ』

など、しっかりと号泣シーンないし絶叫シーンが用意されていて、ぶっちゃけ、(唖然)とするわけです。
さらに正直に書けば、わたしの感覚では、

「いきなり汚水を飲まされたような気分」に。

しかし多くの国民、とりわけ女子中高生たちがこうした映画の号泣・絶叫シーンで涙を流し、「乾燥した」、いや「感動した」と思い込んでいるわけなのである。

「汚水を飲まされた感覚」と「感動したという感覚」の差は、いかにも大きい。
ひょっとして昭和から生き抜いてきたわたしの感性が古びてしまい、劣化しているのか!・・・なんてことは、一切思わないです、実際問題。
まあ結論から言えば、昨今の映画(号泣・絶叫シーン付)は表現としてレベルが低過ぎる。
そうしたシーンに涙を流し、(感動しちゃった!)と信じてしまう感性・感覚も、あまりに未熟であると思いますね。

ではなぜ、今の若い人たちはこうした稚拙な表現で「感動した」と思い込めるのか。
あ、でもおそらく「若い人たち」だけじゃないでしょうね、30歳以降の人たちでも、「号泣・絶叫シーン」を今か今かと待っている人たちもきっと多くいるのでしょう。
ただ、ここは「若い人たち」に話を絞って考えてみますと、少なくとも2つの原因はあるでしょう。

1、 ほとんどの10代は、取り合えず稚拙な表現で満足してしまうものである。
2、 子どもの頃から、高度な、あるいは洗練された表現に接する機会がなかった。
はい。
ま、この問題、国家の根幹に関わることでありますので(いや、冗談抜きで)、今後もテーマとして取り上げていきます。

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いっぷく

私はあいにくその作品見ていません。いまだに昭和の一時期の作品を集中的に見ています。
2015~2016年ごろ、ツタヤディスカスで、未見のもの、見たけれど忘れかけていたものなど300作ぐらい集中的に見たことで、昭和30~40年代の映画について見えてきたこともありますが、それでもまだごく一部なのです。もしかしたらその範囲で生涯の鑑賞は終わってしまうかもしれませんが、まあ学者も自分の論文の範囲だけに詳しい専門家なわけですし、すべてを網羅するのは不可能ですから。

それはともかく、今はやはり、わかりやすく作るようになっているのではないでしょうか。つまり、ここからは泣くシーンとか。そして、泣くシーンはとにかく思いっきり泣いたものの勝ちと。
橋田壽賀子の「渡る世間……」のセリフが説明っボイのは橋田が下手くそだからという意見もあるのですが、私には映画会社の文芸部出身でこの道60年の熟練工がそんな脚本の初歩を理解できていないとは考えにくく、要するにそういう脚本が求められている時代になっているのだとおもいます。
ここで泣きます。ここは爆笑するとこです、という決まりきった構成でないと、視聴者が「どこで感動していいかわからないじゃないか」と苦情を言う時代なのではないでしょうか。
ひとつは、ながら文化、テレビや映画を見ながらスマホでLINEのメッセージうつとか、インスタ用の撮影をするとか、そういうことがあたり前になっているので、まばたきもできない画面との真剣勝負はしないのだとおもいます。それには、わかりやすい場面の転換や説明セリフにならざるを得ないのでしょう。
そして、思考や視聴がデジタルになっているのかなという気もします。ですから、ここからは感動シーンとか、「つなぎ目」がわからないとだめなんでしょうね。それで感動シーンのときは泣く、終わったら別のふるまいをする、という「切り替え」が大事なんでしょうね。
文章を作るのも、どこからか拾い集めたコピペで作りますよね。
でも感動のシーンていうのは、ストーリーの伏線から見るものなので、デシタルな思考で切り替えるものではないですね。
文章も、昔は一発勝負で書ききれと言われました。文にはリズムがあるので、単語ごとの組み合わせになやむのではなく、一つの文はそこから分かつことのできないものだということはよく言われたものです。

>「罪悪感を抱く」という話もありましたですよね。わたしはそのどちらもなかったです(笑)

私は一応罪悪感というか、急に冷静になって、いったい自分は何をしているのだろう、こんなことしてていいんだろうか、という心境になりました(笑)
なにか思いつめているときは、効果的なのかもしれません。
by いっぷく (2019-03-05 04:15) 

hana2019

>「俳優がクライマックスで号泣・絶叫で、さあ、泣いてくださいよ、泣けますよ、涙活ポイントはここですよ!」
・・・最近の邦画にありがちな展開ですけれど、皆そんなに泣きたいのか?
「泣ける映画」好きなのか?、私も不思議でなりません。
「万引き家族」で取り調べを受ける安藤サクラの演技、…見てもいないのに、わかったふりしてしまいますけど。
S.・ブランシェットも、「次に同じ演技をしていたら、彼女の真似をしていると思ってください」と褒めていました。
実生活の中で実際に派手に涙を流す、慟哭するなど、そうあるものではないですよね。
安易な演出に、簡単に同調してしまう風潮は心配です。
by hana2019 (2019-03-05 12:48) 

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