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吉高由里子の存在と「司会者・アナウンサー」という存在の対立。 [吉高由里子]

「めざましライブmeet恋時雨」で吉高由里子が持田香織のパフォーマンスに関して「精力がすごくて……」と表現したことに関して続ける。
吉高由里子が本当に「精力」と言ったのかはさだかではないが、「精力」と言ったとして、それが困惑や笑いを呼ぶことだろうか。
あの場で「精力」という言葉を選ぶのに、意味の上では何の間違いもない。
司会者は「精力」と言えば、「うちの旦那は最近精力が弱くなって~」という意味しかないと信じている程度の無知な人間だったのか?
それはそうかもしれない。
司会者・アナウンサーの知性などというものにはまったく信が置けないし、ましてや「美意識」「品性」などに関しては、他の職業を持つ人に比べてかなり劣る次物が多いと思う。(全員ではありません。念のため)
それはなぜだろうか。
多くのアナウンサーは(特に「女子アナと呼ばれる人間」)採用になった時点で「人生に勝った」と勘違いする。
他にもその職へ就いただけで「人生に勝った」と勘違いする職種はあるが、アナウンサーの場合はさらに「テレビへ出る・有名人になる」という優越感が加わる。
その上各テレビ局の「視聴率至上主義教育」を受けるわけだから、どのような人間ができあがるかは容易に想像ができる。(全員ではありません。再び念のため)

つまり「アナウンサーになったという優越感」に加え、「視聴率稼ぎの人気とり」を徹底的に教育されるわけだから、無神経で無反省な人間が育つのも当然だ。
そんな彼らがテレビやイベントの司会で行うのは、「大衆への迎合」「あらかじめ決められた段取りで進行すること」。
「大衆」という言葉も時代や国によってその質が変わってくるが、今の日本の大衆はある意味戦後のマスメディアが創り上げたものだ。
図式にすると(笑)、
マスメディアが大衆のレベルを下げる→その下がった大衆の欲望のやや下の方を狙って人気とり→さらに大衆のレベルが下がる
かなり単純化しているが、このような形になっていると見るし、大きな間違いはないと思う。

いや~、話が吉高由里子から遠ざかっていると思う人もいるでしょうが、決してそうではありません。
吉高由里子を含め、素晴らしい女優たちが素晴らしい作品でわれわれを楽しませてくれるために、「現状の日本」ではダメなのです。

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