SSブログ

内容的に仲里依紗「パンドラの匣」を圧倒した松たか子「ヴィヨンの妻」。吉高由里子に対する無責任な「テキトー」意見について。  [吉高由里子]

「ヴィヨンの妻」と「パンドラの匣」を同時期に観たわけだが、「豊かさ」において「ヴィヨンの妻」が圧倒していた。
特に背景と登場人物の官能的なまでのバランス。
背景というのは壁やそこに貼られているもの、障子や、電車の窓、さらに蠢く(主要でない)人間たちも含んでのことだ。
これだけ背景の色彩や動きにまで配慮した日本映画は最近そうないのではないか。
例えばかつての傑作では、溝口健二の「西鶴一代女」で隅々まで計算された「背景」の美術と動きが凄かった。
わたしは「ヴィヨンの妻」を観ながら、そんなことを考えていたのだ。
主要人物の顔立ち、衣装、立ち居振る舞いなどとものの見事に調和して動く「生きた」背景。
このような映像をスクリーンで観ると、もはやストーリーは二の次になり、ただただ生理的な部分まで攻め入って来る官能性に身を委ねてしまう。
動く映像の官能性というのが、映画を鑑賞する最大の歓びの一つであることに間違いはない。

これは吉高由里子についてだけではないが、吉高由里子の名前が浸透していくにつれて雑誌やネットなどの媒体で「~ライター」などと称した人たちが彼女に関してテキトーな文章を書くようになる。
有名人になるということは「テキトーな文章」の標的になることでもあり、そのようなものの中にはおもしろいものもあるので一概に否定しないし、猥雑さのない世界にはパワーも生まれないというのも分かる。
しかし「テキトー」はあくまで「テキトー」であって、「テキトー」が主流になるべきではないのだ。
nice!(9)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0