SSブログ

●かつて『月刊プロレス』が選定していたプロレス実力ランキング上位者は誰だ? [「言葉」による革命]

●かつて『月刊プロレス』が選定していたプロレス実力ランキング上位者は誰だ?

末尾ルコ「プロレスで知性と感性を鍛えるレッスン」

今でもよく思い出すのが、『月刊プロレス』が作っていた「プロレスラー実力ランキング」的記事。
現在のように、「より魅力的な試合をする」だとか「興行価値があるか否か」だとか、そうした視点は表面上は含まれておらず、あくまで「強さ」に主眼を置いたランキングだ。
しかし子どもの頃に読んだ記事であって、覚えているのはせいぜい上位の数人である。
誰が1位だったか?
ドリー・ファンク・ジュニアだ。
そしてドリー・ファンク・ジュニア1位に選ばれたことに何の違和感もなかった。
既にNWA世界チャンピオンではなかったのだが、それだけドリーには「強さ幻想」があった。
2位は、アンドレ・ザ・ジャイアントだった。
まあ、まだその頃は晩年の動けないアンドレではなかったから、分からなくはない。
これ以下は記憶が曖昧になるが、3位にアントニオ猪木、4位にジャイアント馬場だったと思う。
馬場は既に晩年に入っており、猪木はまだ最盛期の中にいたはずだ。

わたしは「猪木信者」ではなかったものの、格闘技戦が始まってからは、猪木の熱烈なファンだった。
ところが今更ながら、「猪木の強さ」に関して大きな疑問に突き当たっている。

nice!(16)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

nice! 16

コメント 2

いっぷく

私はかなり単純で、日本プロレス時代は、タイガーマスクにも書かれていましたが、NWA王者が1番、AWAが2番、WWWFが3番、インターナショナルが4番などと思っていました。
ジャイアント馬場は、ドリー・ファンク・ジュニアと大阪における息切れの引き分け試合から下り坂、というのが昭和プロレスライター流智美氏の意見ですが、私はボボ・ブラジルにインターを奪われたあたりで、もうすでに長いくだり坂が始まっていたのではないかと思います。リターンマッチで32文を3連発したことがマニアから評価されていますが、それは32文1発でフォールが取れなくなったということですから、衰え以外の何物でもないのです。
日本プロレス時代の猪木は、強くなりたいという純粋さはたしかにあり、山本小鉄や新海弘勝(魁勝司)ら、馬場との関係も悪くなかった人たちがついてきたのもよくわかります。
それがNETの放映権をもっていた坂口が合流して経営が安定し、NWA反主流派が味方になってくれて選手の供給も一息つき、小林、大木戦やロビンソン戦を馬場より先に行い、アリ戦も行ったことで、猪木は馬場超えをしたとどこかに安心感のようなものがあり、そのへんから猪木の魅力は失われてきたような気がします。UWFができたとき、魁勝司が前田を選んだことも、ひとつの回答なんではないかなと思います。
レスラーとしての直接の「終焉」のきっかけは、対ストロング小林戦のジャーマンによる首負傷だったと思います。
by いっぷく (2016-12-05 01:32) 

pandan

おはようございます、
猪木さんのモノマネする人も多いですね。
by pandan (2016-12-05 05:59) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0