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●UFC214ダニエル・コーミエVSジョン・ジョーンズ~泣いたコーミエと明暗が曖昧になったプロレスとの関係。 [「言葉」による革命]

●UFC214ダニエル・コーミエVSジョン・ジョーンズ~泣いたコーミエと明暗が曖昧になったプロレスとの関係。

末尾ルコ「格闘技とプロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

UFC214で実現したライトヘビー級タイトルマッチはダニエル・コーミエVSジョン・ジョーンズだけれど、長いブランク明けのジョン・ジョーンズだけに今回はコーミエ有利かと思いきや、何と3RジョーンズのKO勝ち。
2Rまではどちらかと言えばコーミエが前へ出ていて、それでもジョーンズの長いリーチと長い脚は実に大きな障害となっているなあとは感じていたが、3Rにジョーンズの左ハイがコーミエの右側頭部近くにヒットすると、そこからは一気に強烈なパウンドで決着。
あの岩のように頑丈なコーミエが試合後、しばらく動けないほどのダメージを喰っている姿は衝撃的でさえあった。
さらにコーミエは立ち上がっても、通常は勝者と敗者がレフェリーを挟んで揃って行う「勝ち名乗り」のセレモニーを拒否。
かなり厳格な段取りを持って行われるUFCの歴史の中でも極めて珍しい光景だった。
判定に不服とか、そういったことではなく、自らがこのような惨敗を喫したことを瞬間的に受け入れることができず、パニックになっていたような状態だったのだと、わたしは感じた。
その後、ジョン・ジョーンズがいきなり「できた人間」のようなことを言い出したのには失笑しかかったが、試合結果について理解し、泣いているコーミエに対して励ましの言葉を贈り、その頭を抱き締めた姿には心地よかった。
その後インタヴュアーのジョン・ローガンは、「KO負けしたファイターの話を試合後に聞くのは不適切」としながらもコーミエのインタヴューを敢行。
まだ涙を流しながら、「一体どうしてこうなったのか分からない」と言い、「2回やって、2回とも負けたんだから、ライバルと言っていいかも分からない」と「傷心」という言葉でさえ表現できかねる深い精神的傷を吐露した。

わたしは残酷ではあるけれど、このように「勝敗の明暗」が強烈に分かれる試合が好きだ。
ジョン・ジョーンズについては(ここまで強いのか)という驚きがあったけれど、ジョーンズ以外の相手に対しては戦車の如き強さを発揮していた怪物的なコーミエの、あまりに人間的な涙は、今まで格闘技を観続けてきたなかでも、大きな記憶の一つとして残るものだと思う。

プロレスは一般格闘技とは違うのであって、純粋に勝敗を追いかけるものではないが、それでも何らかの「明確な勝敗」が見えてくる試合こそ、後々まで記憶に残っていく。
試合タイプは異なれども、力道山VS木村政彦、アントニオ猪木VS大木金太郎、あるいは試合としては引き分け判定で、近年になって「とてつもない試合だった」と評価はうなぎ登りであるとは言え、アントニオ猪木VSモハメッド・アリの試合直後は、「絶対に挽回できるはずがないほど巨大な」猪木の世の中に対する大敗退だった。
その逆に極めて白けるのが、例えば橋本真也が大仁田厚と対戦した直後に、「もういっちょう」とか言っていたような、そんな「会社の方針最優先」のメンタリティをがあからさまな発言だ。
そう、あの頃からプロレスは「明暗」や「濃淡」が非常に曖昧になっていたのである。(例外的な試合はまだたまにあったけれど)


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いっぷく

力道山と木村は、力道山が勝ったことで、日本のプロレス界が力道山を絶対的なトップに動くことが決まったという意味付けがありますし、猪木とアリは、馬場がやらないことを猪木がやったということで「猪木が馬場に勝った」という節目であり、かつ対外的に強烈なブランディングになりました。あれがなかったら、新日本プロレスがあれだけ栄えなかったと思うのです。
勝敗がつくというのは結果的にその後の新しい歴史の端緒という見方もあるのではないかと思います。ですから、時間の経過とともに、そのときの勝敗の重さを再評価するということもあるのかと思います。

1968年6月25日の名古屋で馬場がブラジルに負けて、インター22回連続防衛を止められた時があり、それはプロレス界ではよくあるマンネリ防止と対決の演出のためのタイトルのやりとりで、もちろんその次の27日の試合で馬場は32文3連発で取り返すのですが、結果的にその敗北こそが「馬場一強」の終わりとなり、BIの時代に入ってしまいました。
翌年猪木がワールドリーグに優勝しましたが、馬場がブラジルに勝てなかったからということがあり、それは馬場がブラジルを苦手としている、という名古屋の試合が伏線になりました。つまり馬場が名古屋で負けていなければ、猪木のワールドリーグ優勝ストーリーは作れなかったかもしれません。
そしていったん実績が付くと猪木の勢いが止められなくなリ、猪木が除名された1971年は、もう馬場と猪木のコンビにチームワークはありませんでした。実はその頃から客足が落ちたと言われているのですが、仲の悪いBIは観客に伝わり、試合がつまらなくなって客足が落ちたのでしょう。
そして、その落ち込みは、猪木が抜けたことでさらに加速度が付き、馬場が抜けた時点で決定的となりました。
馬場が抜けて半年で日本プロレスは崩壊しましたが、視聴率的には全日本プロレスに必ずしも負けていなかった日本プロレスがそれほどはやく崩壊したのは、BI時代末期の観客落ち込みが「助走」になっていたと思います。
要するに、馬場がブラジルに負けていなれば、猪木のワールドリーグ優勝もなかったかもしれず、となると、その後のBIの関係も格も変わってくるので、その後のプロレスの歴史が別の方向に行っていたかもしれないというわけです。
物理学などで非線形性とかいいますが、たとえば環境問題で温暖化肯定派が、ひとつひとつの事象を分析すると科学的に問題ない(温暖化が起こるはずがない)のに、あることがきっかけでその後の想定が全部くずれていってとんでもない結末になる、という懸念を示していますね。
プロレス界は、ある試合の勝敗が非線形に影響して、だいたんに歴史を動かしてしまうことがあるんですね
by いっぷく (2017-08-10 01:46) 

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