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●高知の中学校、校内暴力が荒れ狂ったエキサイティングなあの時代を、わたしが生き抜いた方法あるいは人間性とは? [「言葉」による革命]

●高知の中学校、校内暴力が荒れ狂ったエキサイティングなあの時代を、わたしが生き抜いた方法あるいは人間性とは?

末尾ルコ「昭和史と中学時代の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

高知市立某中学を卒業したわたしは、高知県下で「公立No1の学力レベル」と自他ともに認める高校へ進学した。
高知県下で「公立No1の学力レベル」と書けば、高知の人間なら誰でもすぐにどの高校かわかるはずで、特に校名を隠す必要もないのだが、特に大きな理由もなく、「今のところは校名を出さない」。
わたしの通っていた中学は、特にわたしが中二あたりから校内暴力が荒れ狂い、恐らく変化でも屈指の暴力中学校だっただろう。
特にわたしが中三となった二学期あたりからは、校内の最強非行グループがやりたい放題の毎日で、彼らが気に入らないサイトたちに対するリンチ攻撃が頻発し、時には教員も被害に遭い、アッと言う間に「学校崩壊」まで至った。
この「学校崩壊」は単に「授業が成立しない」とかいうレベルではなく、最強非行グループによる物理的破壊が当然のように毎日行われていたという意味だ。
窓ガラスは割られ、天井には大小の穴が無数に開き、ドアは壊され、ある時はトイレで焚火が行われていたし、急性アル中の症状で暴れる生徒もいた。
もちろん学校側も(どうにかしなければ)と、これまた連日のように講堂で生徒集会が催されたが、何の効果もなかった。
わたしは小学校から中学校までは基本的に「優等生」で通していたので、当然ながら最強非行グループの一員ではなかったが、彼らとは常に良好な関係を築いていた。
これは今考えてみれば、実に絶妙のバランス感覚だったと自画自賛したくなるところだ。
と言うのも、「優等生」的男子生徒はほとんどが最強非行グループのリンチ攻撃に遭っていたのである。
なぜわたしがその連中の攻撃を受けず、しかも良好な関係であり続けることができたかできるだけ客観的に振り返ってみると、

一つは、わたしがプロレスのトレーニングで鍛錬していことを誰もが知っていて、(あいつは、かなり強い)と目されていたからだろう。

実際、最強非行グループのトップの暴力ポテンシャルは圧倒的で、その男と戦ってもとても敵わなかったはずだが、それ以外の誰も、わたしが(絶対負けるだろう)と感じる生徒はいなかった。

二つ目は、小学校の頃から最強非行グループのトップと、友人ではなかったが、比較的仲がよかったことも大きかったと思う。
まず間違いなくわたしは、トップからの暗黙の了解で、(あいつには手を出すな)という生徒だったのだろうと思う。

そして三つめは、

わたしが「優等生」の一人であるに関わらず、「嫌味のないタイプ」だったことではないかと思っている。

「嫌味の有無」は人間関係を築いていく上で、とても大切なものなのだ。
そして、小学校あたりから、あるいはもっと前から、「嫌味だらけの子ども」というのは多く存在し、それはもちろん間違いなく、「家庭教育」に問題があるのである。


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(。・_・。)2k

嫌味の有無 分かります 俺もそれですね
あと 親父が堅気だったのに とある親分と親友というのが
近所で知れ渡ったためかと バッチまで持ってるとか(笑)
やっぱ 誰も本職からむと手は出せないようですね

by (。・_・。)2k (2018-02-15 02:13) 

いっぷく

私も似たような経験があります。私や長山洋子(←並べて書くと仲間みたいでいいですね)の出身小学校は、高峰秀子の出た蒲田小学校とともに、大田区の南部地区ではモデル校で、区域外でも越境して入ってくる児童もいたのですが、小学校5年のとき、児童が増えすぎて学区域の再編があったのです。その際、ガラが悪い子が多いといわれる隣の小学校から何人か合流して風紀がいっぺんに乱れてしまいました。
ラッツアンドスターのサイドギターだった須川を含めた数人の不良グループがいて、屋上の体育倉庫でシンナーの吸ったとの疑惑もかけられていました。なぜか金魚の水槽をわったり備品を壊したりしてましたね
連中は、誰かをボコボコにしようと決めると、そいつを体育倉庫に呼んで、一応「じゃんけんで負けたやつがやられる」という取り決めがあるのですが、実際にはそいつが負けるまで何度でもじゃんけんをし直すことになっています。
私は、意外にもその連中に頼られていました。理由は、担任の若いつんのめった女教師を私が論駁していたからです。
でも女教師はそこで私に憎悪の念を抱き、その不良グループが犯人と思われることも私を疑うようになリ、私はスポイルされ、結局1学期終了後に転校することになりました。受け入れ先も決まらないのに転校だけが決まったので、私は担任に追い出された放校と解しています。最後に母親が荷物を取りに行ったとき、私がIQが学年で一番良かったらしく、そういう子供はアタマデッカチで扱いにくい、というような捨て台詞も言われたそうです。
まあ、若いから情熱が先走っていたのでしょうが、それに水を差すような存在は許せなかったんでしょうね。
もしかしたら、私は「嫌味だらけの子ども」だったかもしれません。その不良たちもそうかもしれませんが、満たされない「ほしのもと」だったのでしょう。
でも5年の1学期で転校ですから、転校先では卒業までわずか1年半しかいなかったので馴染めず、母校難民だなあと今は思っています。

私は今の携帯は7年目ですが、以前から携帯でネットはむずかしかったですね。
文字の打ち込みも大変ですし、画面の切り替えも重いですしね、しかも小さいし。
私はスマホもタブレットも回線契約をしていないので、自分のブログが画像を読み込んでいないことを、少なくとも2年以上も気づきませんでしたが、いずれにしても入力はパソコン以外ではちょっと厳しいですね。

>(誰を好きになってもいいんだな!)と勇気が湧いてきます♪

これはもう夜中ですが声を出して笑ってしまいました。
人を好きになるというのは素晴らしいことです。
鶴瓶の家族に乾杯とかブラタモリなどは、40~50代の一般人女性が出るときがサイコーですね。
タモリに説明する人が女性のときは、その人が話しているとき口元や目元を観ながら、この人はどんな奥さんになるだろうとか、由紀さおり以来ライフワークになっている妄想がもやもやっと膨らんできます。

by いっぷく (2018-02-15 02:58) 

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