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●あの時、わたしはどんな「恋占い」の方法で、「誰」との恋の行方を知ろうとしていたのか? [「言葉」による革命]

●あの時、わたしはどんな「恋占い」の方法で、「誰」との恋の行方を知ろうとしていたのか?

末尾ルコ「エロティシズムと恋の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

しかし思い起こせば、小学生時代、「恋」はわたしの生活の中で常に極めて大きな感情として存在し続けていた。

わたしは「恋占い」が好きだった。
「ある時期」の話である。
しかしまたしても、「ある時期」を具体的に示すことができない。
推測はできる。
小学生時代だろう。
保育園児の自分が「恋占い」をしていたとは思えないし、プロレスに熱中していた中学時代はなおのことだ。
一番可能性が高いのが、小3~4年の時期。
まだ圧倒的な家族の庇護の下にありながら、「大人の男」への段階へも差し掛かった時期だと言えるだろうか。

わたしはだれを対象として「恋占い」をしていたのだろう。
Y子という、保育園時代から少額の6年間を通じてずっと好きだった少女との恋の行方である可能性は高いが、この前にも書いたように、時期によって他にも複数の少女を好きになった。
ところがその「複数の少女たち」が一体誰だったか、はっきりと思い出せない。
一人だけ顔と名前が一致するのが、Tであって、丸っきり好みと違う容姿なのだが、その時期のノリで好きになってしまった感覚が残っている。
いや、その時期のノリで、自分に「好きだと思い込ませていた」と言う方が正確だろうか。
かと言って、「好きでない」というわけでもなかった。
だから小学生と言えど、誰かを「好きか否か」については、ゆめゆめ単純な感情ではないのである。
もう一人、体操が得意だった少女も、実は書きながら、今、その存在と名前が一致した。
Mという名の少女で、一度講堂の壇上で、身体を反らす模範演技を生徒たちに見せていた。
「存在と名前が」と書いたが、Tと比べるとMは皆が認める美少女タイプだったとだけは覚えているけれど、どうしてもその顔が出てこない。
不思議なことに、決して美形とも可愛いとも言い難いTの顔はよく覚えている。

わたしが当時やっていた「恋占い」の一つ、トランプを並べて恋の行方を占う方法だけれど、テーブルの上にトランプを凸に近い形に並べていたことをクリアに記憶している。
しかし具体的にどんなやり方だったか、どんなルールがあったかなどはまったく思い出せない。
母方の親戚の家に行った日の午後、わたしはその恋占いに熱中していた。
芳しくない結果が出れば、最初から何度もやり直した。
一体その日、わたしは誰に対してそこまでの恋心を抱いていたのか。

ずっと好きだったY子か?
それとも他の誰かか?
ひょっとしたら、まったく忘れている「誰か」かもしれない。

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いっぷく

「恋占い」ですか。私もやったかもしれません。といっても雑誌に書いてある占いコーナーを読む程度ですが。
私はもっぱら自分勝手な妄想に走りますから。やはり夜寝いるまでの時間が至福の時です。
毎日顔を合わせるクラスメートだけでなく、由紀さおりとか伊東ゆかり、さらに子役の松井八知栄などの事案も並行して発展させてました(笑)青江三奈とか長山藍子もよかったですね。
芸能人の妄想なんて、実るはずないのに諦めず、その一方で、クラスメートはクラス替えでいったん妄想に区切りをつけました。芸能人はあくまでも「夢」で、クラスメートは「現実」と分けて考えていたのかもしれませんね。
そういえば小学校の3年ぐらいでしたか、ラブテスターなる、お互いの愛情度をはかる玩具が流行していて、景気のいい建築士の一人息子がそれを買ってもらって学校に持ってきたときがありました。でも妄想の相手だった秀才の女の子との数字は高く出なかったので、がっかりしたことがあります。
その女性とは15年後、社会人になってから連絡を取り1度会いました。私が一部上場の大きな会社だったのでそれを聞いて会う気になったらしいのですが、私がそこを退社するといったら会ってくれなくなりました。でもその1度のデートのときは舞い上がっていて、今もその人のことは恨んでいません。

>これは逆に、「馬場らしい」という感じもします。

馬場自身はもちろん、年金なんかなくても余生を過ごせるだけの蓄えはあったとは思いますが、いつも将来の心配をしているような気がしました。
元子夫人が女帝として振る舞うことについて、グレート小鹿は「実家の伊藤家からお金の援助を受けているから何も言えなくなった」と分析しています。それもあると思いますが、三沢が元子夫人の介入をやめてほしい、馬場に経営に専念してほしいと談判したとき、馬場は、「動けなくなったとき、母ちゃんの世話になるのにそんなこと言えない」と和田京平にこぼしていたそうですから、自分の将来が不安だったのではないでしょうか。
予定していた38歳で引退というのも、プロレスラーとしてははやいですが、自分の将来の不安から、先手先手で次のステージを構想していたように思います。
そういう人なんで、将来何もなくてどうするのという気持ちから、配下のレスラーに対しても年金についてはこだわりがあったような気がします。
まあレスラーたちによる「馬場はケチ」という批判は、桜田にしろ小鹿にしろ天龍にしろ秋山準にしろ、自分が団体の経営者になるとピタリと言わなくなるんですね。付き人だった佐藤昭雄によると、馬場はいいものしか食べないので、若手時代自分の給料より高いブランド牛肉など毎日食べさせてもらっていたそうですから、グレート東郷と同じで、金を出すことと出さないことがはっきりしていて、日本的ななあなあ精神からすると、シビアに見えたのではないでしょうか。

>ずっと前に小林信彦あたりがタモリに厳しいことを書き、たけしを褒めちぎっていたと記憶していますが、当時から、(ちょっと違うんじゃない?)と思っておりました。

小林信彦。渥美清が唯一、業界で多少なりとも胸襟を開いて話し合える唯一と言ってもよかった相手ですね。何しろ小林信彦を自宅に招いてプラッシーを振る舞ったそうですから。関敬六や谷幹一や山田洋次だって招かれたことはないのに。
人を束ねることに定評があり、多くの人に愛されていたハナ肇が、唯一敵愾心を抱いていたのが渥美清。小林信彦は、いったんは「才能の不足を人徳で補う」ハナ肇を選び、“才能はあるが人徳はない”渥美清の方を嫌っています。
渥美清は、役者について「狂気のない奴は駄目だ」「それと孤立だな。孤立してるのはつらいから、つい徒党や政治に走る。孤立してるのが大事なんだよ」という持論を持ち、人間関係を利用してうまく立ちまわる、サラリーマン的処世術とは対極にいるのが役者なのに、その処世術に走って存在感や権勢を誇ろうという野心を「政治」と唾棄していました。結局小林信彦は、そんな渥美清に戻ったんですね。
ということは小林信彦は、ビートたけしには「狂気」があると思ったんでしょうね。私はよく分かりませんが、ビートたけしは十分「政治」にも走っていると思うんですけどね。
by いっぷく (2018-03-01 02:51) 

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