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●3月午前2時過ぎのイタズラ電話から、引っ切り無しの無言電話と共産党ポスターの時代を思い出す。 [「言葉」による革命]

●3月午前2時過ぎのイタズラ電話から、引っ切り無しの無言電話と共産党ポスターの時代を思い出す。

末尾ルコ「自分史と現代史を語りながら、知性と感性を鍛えるレッスン」

3月16日の深夜、2時過ぎだった。
リビングに設置している固定電話が鳴った。
嬉しいはずがない。
すぐに受話器を取った。
場合によっては怒鳴りつけてやろうと思って。
しかしわたしが受話器を耳に当てると同時くらいに、電話は切れた。
おそらくアトランダムなイタズラ電話なのだろう。
それにしても深夜2時に人様の家の固定電話にかけてくるような、どす黒くストレスが溜まった連中はきっとゴロゴロしているのだろう。
まったくの安全地帯から、匿名でネット掲示板などへ愚劣なことを書きまくる連中も同様である。(昨今の事例から、匿名でのコメントも必ずしも「安全地帯」ではなくなりつつあるのかもしれないが)
固定電話はほとんど使うことないが、毎月8000円ほど払い続けている。
そう言えばまだ父が生きていた頃、当時は携帯も出回ってなかったのだが、自宅固定電話に引っ切り無しの「無言電話」がかかり続けた時期があった。
それは本当に「引っ切り無し」であり、「鳴る→出る→(相手は)何も言わない→切る→すぐにかかる」の繰り返して、それはかなりの異常事態だった。
3月16日深夜にかかった電話は、わたしが出るとすぐ切れた。
間違いなく、(誰かにちょっと嫌がらせしてやろう)という軽い気持ちでのイタズラ電話であり、すぐ切るところに臆病さもしっかり表現されていた。
ところが「引っ切り無しの無言電話」は、「こちらが切るまで、向こうは切らない」のである。
確実に「わたしの家」に対しての確信的な嫌がらせである。
しかし携帯電話のない時代、固定電話を使用できないようにするわけにもいかず、わたしたち家族は手をこまねき続けた。
父も母ももちろん、「こんなことされる覚えはない」という意見であったけれど、真っ当に暮らしていても、誰に恨みを持たれるかは分かったものではないのである。
「犯人」の可能性として、まず一つは、わたしの父母は日教組の組合員であって、二人とも「左翼的思想」など実はまったく持ってなかったし、理解もしていなかったのだけれど、ある時代までは、「ほとんど教員はほぼ自動的に日教組へ入っていた」のである。
ただ、母は政治に関する興味は「ゼロ」だったのだが、父は「反体制的ポーズ」を取ることがお好みで、共産党機関紙『赤旗』を購読していたのみならず、共産党候補者のポスターを道に面した壁に掲示することを許していた。
現在より社会党、共産党が力を持っていた時代であり、ポスターなどを掲示していた我が家が「アンチ左翼」に目を付けられていた可能性はあっただろう。
結局無言電話に対する有効な手立ては思いつかず、「電話番号を変え、電話帳に載せない」という手段を取った。
するとすぐに、無言電話は終わった。

父の死後しばらくして、母は共産党ポスターの取り外しを決め、さらに『赤旗』購読も止めた。
そもそも母は、おそらく一度も『赤旗』など読んだことなかっただろう。

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いっぷく

日教組というのは不思議な組織です。主流(社会党右派)、反主流(共産)、非主流(社会党左派)というのがいて、そのうち全労連の全教ができて、みんなそっちにいくのかと思ったら日教組に残る人もいて、ナンだ、共産系も一枚岩じゃないのかと思いました。国鉄もそうでしたね。国労と全動労があって、国労の共産党員がいるというのがよくわかりませんでした。
日朝協会というのがあって、社会党系と共産系がいたのですが、金賢姫事件で対応が分かれ、共産党は宮本顕治の鶴の一声で北朝鮮の仕業だといちはやく声明を出しましたが、総連とズブズブの社会党は不可知論の立場を取り、社会党系が離脱しました。←反核運動に似ていますね。
で、当時たぶん総評や中立労連からかなりのお金が出ていたらしく、社会党系がごっそり抜けたら、日朝協会はとたんに専従も置けない貧乏団体になリましたが、ここでも共産系が必ずしも一枚岩ではなく、たとえば赤旗特派員だった萩原遼さんのように、金賢姫の子供の頃の写真を発表して北朝鮮に対しては対立する姿勢を示した人もいれば、その頃から竹島を「独島」と呼び、天童よしみの「珍島物語」を好んで歌っていた人たちもいて、まあそれが今の日本共産党の主流なのだろうと思います。萩原さんは除籍になったしまったし。

毀誉褒貶ありましたが、梶原一騎先生が絶賛されているように、宮本顕治という人は善し悪しは別として、昭和の香りがかんばしいリーダーで面白かった!
アメリカや日本の与党だけでなく、中国やソ連や北朝鮮にも文句はズバズバいい平気で絶縁したり、「社会主義国の核は良い核」と理論武装した上田耕一郎を自己批判させ、決して党内の実権を握るポストにはつかせなかったり、「袴田里見は頭が悪いが非転向を貫いたから副委員長にしてやった」などと党60周年時の党史に書いたり(それ以降の党史からは削除)目端の利くヤクザの親分が党を私物化しているような直截さが笑えました。
そして、他のマルクスセクトをぜんぶつぶして、自党だけが国会議員を送り込み、職員3000人、地方議員3000人を抱える大所帯にまでしたのは、力道山ばりの馬力と統率力がなければできないことですから、これは率直にすごいと思います。
その後の上田健二郎こと不破哲三とは違い、ワンマンではあるけれども一方で見込みのある人材を見出し育てる度量はあり、寺前巌、山原健二郎、吉岡吉典ら、党派を問わず慕われた「人間党」政治家は宮本顕治だからできたのであり、80過ぎていまたに赤旗の理論面の執筆を独占している恐妻家ギミックの不破哲三ではできなかったことだと思います。
まあ、当時は好き嫌い、賛成反対は別として、どの党にも面白い人がいましたね。

by いっぷく (2018-03-24 03:12) 

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