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●日本、「100歳以上が、7万人近く!」~これは福音なのか?~あるいは恒例の方々の生命の輝き、そして「死の覚悟」。 [「言葉」による革命]

●日本、「100歳以上が、7万人近く!」~これは福音なのか?~あるいは恒例の方々の生命の輝き、そして「死の覚悟」。

末尾ルコ「根源について思考し、知性と感性を鍛えるレッスン」

日本には、「100歳以上の方々」が、現在6万9800人近くいるという。
これは厚生労働省が最近発表したことで、ご存知の方も多いだろう。
より具体的に記せば、全国の100歳以上の方々は6万9785人。
これは48年連続で過去最多を更新しており、その中で女性は88.1%だったという。

この数字を見ての感想は様々だろう。
ネガティヴに受け取る人も少なからず存在する。
特に「経済的」を重視する人たちからは否定的な意見が出ることが多いはずだ。
なにせ匿名の掲示板では、「80歳を超したら、早めに死んでもらう方がいい」なんてコメントを書き込む手合いが存在する。
このような考えを持つ手合いには、ぜひ「あなたこそ早めにどうぞ」と言ってやりたくなるが、わたしは見ての通りの(ふふふ)パンクなジェントルマンなのでそんなことは言わない。
けれどわたしの母は80を超えており、頑張って日々をできるだけ充実させながら生きている。
わたしは母にぜひ、「100歳を超えても人生を愉しめる」ようであってほしいのだ。

そしてわたしはカフェでも、スーパーでも、道すがらでも、間違いなく身体的にはいろいろな不調を抱えていながらも、しっかりと生きてらっしゃるご高齢の方々を見かけるだけで、心に熱いものがこみ上げてくることがある。
間違いなく肉体的には衰えているのだが、それだけに「強く生命」を感じさせてもらえるのが、ご高齢の方々の姿からなのだ。
そうしたことも含め、わたしはこの数字からポジティヴなメッセージを受け取りたい。

つまり、「人間の持つ可能性の拡大」だ。

現在100歳と言えば、概ね1918年(大正7年)の生まれである。
今でこそ日本は「医療・健康情報」で溢れ返っていて、多くの人たちが「できるだけ健康に」といろいろなやり方を試している。
そうした「方法」の中にはインチキも多く含まれているだろうが、例えば栄養学的知識や基本的な医療知識の浸透が日本人の健康状況に好影響を与えているのは間違いないところだ。
けれど1918年(大正7年)くらいに生まれた方々が生きてきたかなりの期間は非常に手薄な「医療・健康情報」しかなかったはずである。
そうした条件の中でこれだけの方々が100歳を超えてらっしゃるのを見れば、単純に考えて、「よりよい医療・健康情報」をより適切に適応すれば、「より中身の充実した長寿」が得られる可能性が高いと思うのだ。

いや、わたしは別に、汲々として長寿を求めているわけではない。

「どんなに慎重に生きていても、死ぬ時は死ぬ」のである。

それはどんな年齢でも同じ。
もちろん高齢になればなるほど「死が近づく」のは間違いないが、現実として、いくら若くても毎日多くの人が死んでいるのである。
この「基本的認識」をしっかり踏まえ、これからのわたしたちはどう生きていくべきか、思考を深めていこう。

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いっぷく

全くおっしゃるとおりです。たしかに掲示板にはそういう書き込みがありますし、高齢者だけでなく障碍者や病人に対しても、どこまで本気かわかりませんが「無理に生かすな」の大合唱ですね。
噴飯ものなのは、そういうことを言ってるやつに限って、自分や自分の家族がそうなったら「往生際が悪い」やつがいるのです。要するに、実際にその立場になったらどうか、ということを想像できなかっただけなのでしょう。いざ自分や自分の家族がそうなると、方針が変わってしまうのです。

私の場合、私自身ではなく、子どもが障碍者になりましたが、よくそのへんにゴロゴロしている安っぽい本のコピーのような、「子どもが障碍者になってくれてありがとう」のようなことはもちろん絶対に思いません。今も「ほしのもと」をうらみ、いつか位牌ごと仏壇を斧で叩き割りたいという気持ちを持っているくらいですから←妻が、そんなことしたら必ず自分の手足まで切断するだろうからやめろと止めてますが(笑)
ただ、それはそれとして、障碍者の親になることで新たに見えてきたものもあるわけです。たとえば福祉の実態とか←教科書で文言で知ることと受給者として感じることは全く別なのです。
あとは障碍者の親の気持ちとか、障碍者の親としてどう生きるかとか。
歳をとっても同じで、そりゃ、20歳や30歳でできていたのに80歳や100歳になったらできなくなることはあります。そんなことに満ちています。しかし、80歳や100歳という年齢ときちんと向き合うことでその年齢ならではの人生があると思うのです。
つまり、何か人生を根本的に変えてしまうような不幸があっても、歳をとっても、命がある限り、今までとは「違う生き方、世の中の見え方」があるだけなのです。それが今までの生き方より上か下かとか、そんなことはわからないし、そもそもそういう比較もナンセンスでしょうが。
そういう意味で、生きとし生けるものの人生には皆価値があるわけで、ネット民が「そんなの生きてる意味ねえよ」などと抜かしているのは、余計なお世話なのです。
学校時代、能力別クラス編成とか経験してきて、人に格付けをするクセがつき、かつそのクラスによって「ぼくはあっちのクラスには行きたくない」「あんなところ行ったら人生終わりだ」なんて評価をすることが習性になっしまったのかなという気もします。

そういえば、先日、前回のクラス会を、気に食わないやつがいるから断ったら、今回お呼びがかからなかったと書きましたが、そこには行き違いがあったらしくて、むしろ私を参加させたくて、Facebookの投稿でわざわざ「次回は参加しましょう」などと書いている奴がいたのです。
では、それほど私が歓迎されているのかといったら、私自身に対しては特別そういうわけではなくて、要するに私が火災ですべてを失い、子どもが障碍者になった「惨めな人」なので、構成上、そういう人を参加させたかったらしいのです。
幹事が、人付き合いは額面(学歴とか勤め先とか)から入るのが好きらしくて、元同級生なのに必ず名刺交換するのです。異業種交流会じゃあるまいし。それで、「○○は出世頭だ」とか、同級生に格付けをしたがるのですが、幹事自身は介護離職で無職のため、「より惨め」と思える私を参加させたかったというわけです。
人を馬鹿にするにもほどがありますね。
by いっぷく (2018-09-17 03:06) 

hana2018

「無理に生かすな」・・・は私自身が夫に、常々話している内容の一部です。
すでに社会性ゼロ、自己中心的なので、夫の方が長生きし、面倒を見てもらうつもりになっています(笑)
それでも延命措置は一切不要と考えているのって、気持ちまで不健康なのでしょうか。
今は歩ける、身体も動くものの、動けなくなる時期は他の人よりも絶対に早いはず。
本を読んだり、映画を観たりして過ごす時間も嫌いではないものの・・・ただそれだけベッドに寝て、閉じこもるだけの毎日は嫌です。
それはお年寄りは勿論!健康で身体が動くのであれば。
また自分の事が出来なくなって、どうって事のない事でさえ思い出せなくなってしまったら。
自分自身、実家の母を含めて、人生を愉しみつつ生きていく事が出来るなら…少しくらいの長生きはしたいものですけれど。。どう考えても、それは無理。あと2年経つと、父の生きた享年を越えます。

by hana2018 (2018-09-17 22:16) 

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