SSブログ

●「映画との出会い」を見直すことで、「映画好き」を増やす方法を考えてみよう!~映画を「文化」として認識できない日本では恥ずかしいからね。 [「言葉」による革命]

●「映画との出会い」を見直すことで、「映画好き」を増やす方法を考えてみよう!~映画を「文化」として認識できない日本では恥ずかしいからね。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

人生において、「出会い」の重要性についてどれだけ語っても語り切れないが、とりわけ幼い頃の、人生初めての出会い」がどれだけその人の人生そのものに大きな影響を与え続けるかは語るまでもないだろう。
人間関係としては、まず「初めて出会う女性は母親」であるのが普通であるし、もちろん生れ出た瞬間に助産婦(助産士)なども存在することが多いのだけれど、それは「母親」とは異なる文脈である。
そして「初めての社会との出会い」は、普通は「家族」、あるいは「家族的な単位」ということになるだろう。
しかしここでは、「文化的出会い」、さらに絞って、今回は、

「映画との出会い」

の記憶を振り返ってみよう。

なにせこの前の記事にも書いたように、1億数千万の人口を擁する日本で、「タイトルまで気にする映画ファンは数千人」とまで見積りも存在する惨状であるけれど、それはつまり、

「本当の意味で映画と出会ってない人」

が多いからではないか。
もちろん多くの複雑な問題が絡み合っているわけで、単純化は致しませんが。

ところで、「人と映画の関係」を大雑把に分類すると次のようになるだろう。

1(意識的に作品を鑑賞する)映画ファン
2比較的よく鑑賞する映画好き
3多くのレクリエーションの中の一つとして、気が向けば映画を観る人
4まったく映画を観ない人

日本ではどうだろう、いくら何でも「4」はそれほど多くないと信じたいが、油断はできない。
一番多いのは、「3」ではないかと思うが、この前取り上げた『ビジネス+IT』の記事中のA氏が語っていたように、この層の関心を引き付けることが映画宣伝のメインテーマとなっているのだろう。
そして映画産業の世界を衰退させず、興隆させていくためには、「3」から「2」へ移行する人をできるだけ多くしていくことなのだと、大雑把に言えばそうなるのではないか。

わたしはまがりなりにも、「1」に入っていると自覚しているが(1268億分の数千? 笑)、どのような形で「映画との出会い」があったか?
実は比較的、「普通の出会い」だったようだ。
両親が特別に映画ファンだったわけではない。
母は、「『風と共に去りぬ』大好き!」というくらいしか映画知識はなかった。
どちらかと言えば父の方が映画を語りたがっていて、「映画ファン」とまではいかなかったけれど、「映画は総合芸術やきねえ(←土佐弁)」というフレーズをたまに口に出し、市川雷蔵、黒澤明、イングリッド・バーグマン、田中絹代らに軽いこだわりは持っていた。
その意味でわたしは、これだけでも父に大いに感謝しなければならないのだろう。
まだ家庭用ビデオデッキなど夢にも考えられなかった時代、その分テレビで放送される映画の価値は高かった。
民放各局の『~ロードショー』的番組の存在感も極めて大きかったし、NHK総合、あるいはNHK教育では、チャップリン、ロベルト・ロッセリーニ、黒澤明らの作品が折に触れ放送されていて、少なくともわたしの家庭では、「そういう映画を観るのが当然」という雰囲気ではあって。
こう考えてくると、ビデオデッキの普及で「いつでも好きな映画を」というライフスタイルができてけれど、逆に「観ない人間は、一切観ない」という大きな代償を、ずっと払わせられ続けていると見ることもできる。

nice!(30)  コメント(2) 
共通テーマ:アート

nice! 30

コメント 2

いっぷく

私は毎週日曜日に父に連れられて映画館に行きました。いいも悪いもなく、まあ遊園地は私はあまり好きではなかったし、その頃の蒲田は松竹撮影所があったところだけに映画館が20館営業していましたから、娯楽というとまず映画館でした。そして、映画を見終わった後、近くのラーメン屋でラーメンをいただくのですが、そちらの方が楽しみでした。
あとは、銭湯の帰りに焼き鳥屋に行くというのもありましたね。映画はともかく、焼き鳥は今もあまりいただかないので、この「出会い」はあくまでも父のお相伴だけで終わりました。
しかし、東映まんがまつりのようなものは見た記憶がありません。ガメラは1度ありましたが、私が退屈して、他の悪ガキたちとスクリーンに上がって遊んで他の客に迷惑をかけて以来行かなくなりました。
映画館で見たのは松竹喜劇が多かったとおもいます。コント55号、フランキー堺の喜劇旅行シリーズ、あとは東宝の駅前シリーズも見ていたような記憶があります。黒澤映画とか、東映のチャンバラ映画などは見なかったですね。喜劇でも、社長シリーズとクレージーは記憶もあまりありません。父は起業家だったので(2度失敗したらしいですが)叩き上げの話ならともかく、社長シリーズのようなものはあまり好きではなかったのかもしれません。
クレージーはテレビは見ていましたが映画はあまり見ませんでした。クレージーが楽器を弾いているのを見て、「ああこいつらもうだめだな(人気が落ちるな)」と嘆いていました。「自分には楽器がある」と逃げ道作ってお笑いに執着しなくなるというようなことも言ってましたが、でもクレージーはもともとミュージシャンんですけどね。
大鵬が32回優勝したとき、母が「こんなの八百長じゃないの」と言ったら、「八百長で32回も優勝できるはずがない」と怒っていました。プロレスも「ショーなんでしょ」と母が言ったら、父は「地方巡業はショーで、タイトルマッチだけは真剣」と答えていました。当時だと、そのへんの分析で精一杯でしょうか。
試合では、吉村道明がやられ役だったので、いつも吉村に腹を立てていましたが(笑)たまに吉村が解説をしていると、二コニコに笑ってうなずきながら聞いているので、実は結構吉村が好きだったのかもしれません。
あとは歌番組を見ていましたね。それによって、ラジオのベストテン番組などもよく聴くようになり、歌に詳しくなりました。
まあこうしてみると、父は映画やテレビが好きでよく見ていたので、私もそうなったのかもしれません。これは今の私を考えると、よかったとおもっています。
それだけに小学校高学年の「受験勉強による制限」は痛恨の極みでした。
しかも、試験1週間前に母の母が危篤になり、母は実家にいた兄の妻と絶縁だったので、葬式に行くとか行かないと連日姉妹と話し合っていて、よりにもよって試験の日に亡くなり、私も試験に落ちてしまいました。
いまセンター試験の季節ですが、いくら勉強しても、当日風邪を引いたり、身内の不幸があったりしたらそれっきりなんですね。私が自分の運に全く自信を持てなくなったのはこのあたりからです。
まあ、祖母を憎んじゃいますよね、こういう場合。
by いっぷく (2019-01-24 05:38) 

hana2019

小学校へ入学前後頃だったでしょうか。
私もお父ちゃんの自転車の後ろに乗って、何時も二人で雷蔵や勝新、三船の映画を観に行っていました。
一度弟を連れて3人で行ったら、まだ幼かった弟は映画よりも館内の売店の方が気になって少しもじっとしていなかったと(笑)二度と誘わなくなってしまったと言います。
そんな些細な事が、映画そのもの、登場人物=俳優の演技、魅力に目覚めるきっかけとなったのでしょう。
今では魅力の感じられない大河ドラマにしても、毎週楽しみに見ていた。それが兄弟して歴史好き、本好きになったのに関係のない事ではないと思っています。歴史好きが高じて、弟など日本史の教師になったくらいでした。
音楽も好きで関心は持っています。決して豊かとはいえない家庭環境の中、映画も、書籍も、音楽を楽しむラジオ、プレーヤーは身近な存在であったのは、まさに両親のおかげと感じています。

大阪なおみさん、全豪オープンテニスの決勝、進出決めましたね。
普段はキュッとしめた口元、しかし時おりのジョークと微笑み、とてもチャーミングだと思います。
by hana2019 (2019-01-24 17:05) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。