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●全日本プロレス「オープン選手権」と猪木VSビル・ロビンソンの1975年。その2 [「言葉」による革命]

●全日本プロレス「オープン選手権」と猪木VSビル・ロビンソンの1975年。その2

末尾ルコ「プロレス観戦で知性と感性を鍛えるレッスン」

1975年、全日本プロレスの「オープン選手権」は結局開幕戦が最も盛り上がり、その後はどんどん盛り下がるという意外な結果となった。
その点は1977年の「世界オープンタッグ選手権」で、最終戦でファンクスVSブッチャー・シーク組の伝説的な名勝負を生んだ展開とは対照的でさえあったと言える。
なにせ「オープン選手権」は最終戦がジャイアント馬場VSホースト・ホフマンというシブ過ぎるカードとなってしまったのが逆に印象に残っているほどである。
ただ、このホースト・ホフマンは当時から、「実はとても強い実力者」という評判もあり、いずれまた検証してみたいと考えている。
「オープン選手権」の開幕戦でドリー・ファンク・ジュニアVSアブドーラ・ザ・ブッチャーという「夢の対決」がいきなり実現し、これはもう心に焼き付いている。
この試合は結局ブッチャーの反則勝ちとなっているが、ドリー・ファンク・ジュニアの入場シーンだけでワクワク度が最高潮になった。
後年「テリーの兄」という情けない位置付けになったドリーとはまったく違い、高級感に満ち溢れていた、と感じたのは日本製プロレス本の影響を受けまくっていたプロレス少年の幻影だったのだろうか。

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いっぷく

ドリーは、オープン選手権で馬場に勝っているし、ブロディとインター選手権をめぐる抗争もありましたね。
ところがテリーは、全日本の初期にインタータッグのベルトを巻いて登場しましたが、負けたらそれっきり、2度とタイトル戦線には絡むことはありませんでした。最強タッグ優勝しかないんですよね。
兄弟対決もドリーが勝ってるし。
「テリーの兄」としてテリーに人気を譲っているようで、実は記録では明らかにドリー>テリーなんですよね。
馬場がうまいのか、ドリーがそうしたのか、テリーが兄をたてたのか、そのへんは謎ですけどね。
オープン選手権は、最終戦が川崎市体育館だったですよね。最後に大きな場所、というツアーの組み方はこの頃はまだ定着していなくて、1974年に馬場がNWAをとったときも、日大講堂のクライマックス(馬場がNWA初防衛の試合)は最終戦ではなかったですね。
たぶん、オープン選手権は強豪ガイジンのスケジュールに合わせて日程を組むことが優先されて、その場所の収容人員は二の次だったんでしょうね。
そもそも全日本は、旗揚げ戦で日大講堂を抑えることに失敗し、代わりにおさえた東京・町田市体育館の旗揚げ戦を「前夜祭」と称して、2戦目でやっと日大講堂をおさえたので、2戦目なのに「旗揚げ戦」と強引に名付けたほどです。
1978年の世界最強タッグ決定リーグ戦も、2週間の開催期間の真ん中に蔵前が入ってしまい、最終戦は札幌でした。札幌自体は大きい器ですが、やっぱり掉尾を飾るのは武道館や日大講堂にしてほしかったですね。
ひとつには、全日本は営業が弱かったので、巡業の作り方がうまくなかったのだと思います。
もうひとつは、日本プロレス時代はワールドリーグの決勝も最終戦ではなくて、その後選抜戦と称して、ウケたガイジンを残して決勝戦の余韻で興行を続けたそうですが、そういう古い興行の感覚が馬場には残っていたのだと思います。テレビで名前を売って、ドサ回りで稼ぐという感覚ですね。
でも新日本と全日本が対立する時代は、スポーツ新聞や雑誌などプロレスマスコミが発達して、巡業の試合結果は逐一ファンの耳目に入るので、最終戦で最高潮に達してそこで完結するという興行形式を採り入れるべきでした。
by いっぷく (2017-01-27 02:47) 

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