末尾ルコ詩D「猫、サント・コロンブ」篇。末尾ルコ「音楽であなたの人生をより強く美しくする」講座~2016年グラミー賞でデヴィッド・ボウイをトリビュートしたレデイー・ガガはオーラを失ったのか? [吉高由里子]
「末尾ルコ 革命広場」/〈「言葉」による革命・「美」による革命〉
★「言葉」で「あなた」はもっと強くなれる。
「あなた」が強くなることで、「日本」はもっと強くなる。
高知から日本の隅々まで、末尾ルコ〈「言葉」による革命〉で、あなた自身があなたの住んでいる場所で「革命戦士の一人」に!
現在実験的にブログをつついています。
その一環としてブログテーマや順位は表示しておりません。
●末尾ルコ詩D「猫、サント・コロンブ」篇。
「猫、サント・コロンブ」
クロード・クロッツの小説に満ちた黄昏
を 目の前のパンジーへと注入してみようか
サント・コロンブが
マラン・マレに伝えたことがあるとしたなら
サント・コロンブは
ずっと分かっていたのだろうか
音楽が
この世のものではないことを
ヴィオールを奏でる
きっと今も奏でている
サント・コロンブは
・・・・・・
ぼくの素敵なネコの
歩く姿はとても
音楽!
(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)
●末尾ルコ「音楽であなたの人生をより強く美しくする」講座~2016年グラミー賞でデヴィッド・ボウイをトリビュートしたレデイー・ガガはオーラを失ったのか?
2016年グラミー賞を観ていて、今のケンドリック・ラマーをヴィヴィッドに鑑賞できたとか、素晴らしい部分はあったのだけど、レディ・ガガがデヴィッド・ボウイを追悼するパフォーマンスをやっていて、正直なところちょっとキツくなってるなあと。
スターとしてのオーラがどうにも無いんです。
レディー・ガガはもともと顔立ちもプロポーションもさほど目立つ方ではなく、顔はわたしは美術史的には「いい顔」「鑑賞し甲斐」のある顔をしていると思っているけれど(ほら、クラナーハらの絵画を思い出してください)、それが一般ウケしているわけではないであろう。
かつて、「ボーン・ディス・ウェイ」を発表した前後は、その衣装、言動も含めて「世界を制した」と評しても違和感のない存在となっていたけれど、当時から「音楽的ポテンシャルの限界」はよく指摘されていた。
もちろんレディー・ガガ自身だけを見れば、優秀な歌い手でありパフォーマーであるのだけれど、なにぜ米国は次から次へと「極めて優秀なミュージシャンが登場するから。
特にテイラー・スウィフトの爆発的な人気拡大は、なにせ持って生まれた容姿、あんなプロポーションでしかも作り手としても歌い手としても図抜けた才能を持ち、さらにネットを駆使してファンに「近い存在である」と意識させる方法といい、レディー・ガガのやっていたことに「小細工感」をもたせたことは必至でしょう。
テイラー・スウィフトが「洋楽離れ」の日本でさえ若い女性を中心に大人気なのは皆様もよくご存知でしょうが、スウィフトの場合、
「音楽的評価もすこぶる高い」
ことを忘れてはいけません。
ただレデイー・ガガ。
感動的な日本でのステージは忘れられない。
そして米国は、ハリウッドスターでもミュージシャンでも、「もう過去の人」だと思われていて、突如大復活を遂げることもよくある。
映画「バードマン」のマイケル・キートンが最近で一番の例ですが、レデイー・ガガの動向、今回オーラの無い姿を観てしまっただけに、今後より注目したいのです。
今こそ注目しましょう、
レデイー・ガガに!
マスメディアの操作」と「日本人の弱さ」によって膨張した人気者たちは、もちろん本物ではないし、「スター」でもありません。
★「言葉」で「あなた」はもっと強くなれる。
「あなた」が強くなることで、「日本」はもっと強くなる。
高知から日本の隅々まで、末尾ルコ〈「言葉」による革命〉で、あなた自身があなたの住んでいる場所で「革命戦士の一人」に!
現在実験的にブログをつついています。
その一環としてブログテーマや順位は表示しておりません。
●末尾ルコ詩D「猫、サント・コロンブ」篇。
「猫、サント・コロンブ」
クロード・クロッツの小説に満ちた黄昏
を 目の前のパンジーへと注入してみようか
サント・コロンブが
マラン・マレに伝えたことがあるとしたなら
サント・コロンブは
ずっと分かっていたのだろうか
音楽が
この世のものではないことを
ヴィオールを奏でる
きっと今も奏でている
サント・コロンブは
・・・・・・
ぼくの素敵なネコの
歩く姿はとても
音楽!
(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)
●末尾ルコ「音楽であなたの人生をより強く美しくする」講座~2016年グラミー賞でデヴィッド・ボウイをトリビュートしたレデイー・ガガはオーラを失ったのか?
2016年グラミー賞を観ていて、今のケンドリック・ラマーをヴィヴィッドに鑑賞できたとか、素晴らしい部分はあったのだけど、レディ・ガガがデヴィッド・ボウイを追悼するパフォーマンスをやっていて、正直なところちょっとキツくなってるなあと。
スターとしてのオーラがどうにも無いんです。
レディー・ガガはもともと顔立ちもプロポーションもさほど目立つ方ではなく、顔はわたしは美術史的には「いい顔」「鑑賞し甲斐」のある顔をしていると思っているけれど(ほら、クラナーハらの絵画を思い出してください)、それが一般ウケしているわけではないであろう。
かつて、「ボーン・ディス・ウェイ」を発表した前後は、その衣装、言動も含めて「世界を制した」と評しても違和感のない存在となっていたけれど、当時から「音楽的ポテンシャルの限界」はよく指摘されていた。
もちろんレディー・ガガ自身だけを見れば、優秀な歌い手でありパフォーマーであるのだけれど、なにぜ米国は次から次へと「極めて優秀なミュージシャンが登場するから。
特にテイラー・スウィフトの爆発的な人気拡大は、なにせ持って生まれた容姿、あんなプロポーションでしかも作り手としても歌い手としても図抜けた才能を持ち、さらにネットを駆使してファンに「近い存在である」と意識させる方法といい、レディー・ガガのやっていたことに「小細工感」をもたせたことは必至でしょう。
テイラー・スウィフトが「洋楽離れ」の日本でさえ若い女性を中心に大人気なのは皆様もよくご存知でしょうが、スウィフトの場合、
「音楽的評価もすこぶる高い」
ことを忘れてはいけません。
ただレデイー・ガガ。
感動的な日本でのステージは忘れられない。
そして米国は、ハリウッドスターでもミュージシャンでも、「もう過去の人」だと思われていて、突如大復活を遂げることもよくある。
映画「バードマン」のマイケル・キートンが最近で一番の例ですが、レデイー・ガガの動向、今回オーラの無い姿を観てしまっただけに、今後より注目したいのです。
今こそ注目しましょう、
レデイー・ガガに!
マスメディアの操作」と「日本人の弱さ」によって膨張した人気者たちは、もちろん本物ではないし、「スター」でもありません。
コメント 0