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●「名勝負」論~何だったのか、猪木VSマサ斉藤「巌流島の対決」 [「言葉」による革命]

●「名勝負」論~何だったのか、猪木VSマサ斉藤「巌流島の対決」

末尾ルコ「スポーツ&プロレスの話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

名勝負とは何ぞや。

主にスポーツ関連の世界で語り続けられるのが「名勝負」であり、よく「歴代名勝負ベスト~」なんていうランキング企画も見られるわけだけれど、考えてみれば、なかなかに難しい話なのである。
わたしの感覚では、ただ単に「試合内容」のみを吟味して「どれが名勝負か」と検討するのではあまりおもしろくない。
その試合へ至るまでの過程であるとか、その試合自体の舞台設定であるとか、そうしたものまで総合的に評価してこその「名勝負」であると思うのだ。
例えばプロテニスであれば、世界的な統一機構の下、技術やルールが非常に整備されており、他のスポーツと比較しても「名勝負」が明快に決められそうだが、まったく同じ選手で同じような内容の試合ができたとしても、一般のツアートーナメントとグランドスラムではまったく価値が異なる、つまり名勝負度が異なることになる。
そして当の試合が行われた段階での、そのスポーツや、もっと大きく言えば、世界情勢の中の文脈によっても観戦者が受け取る感銘はまったく違ってくるから難しい。
つまり、同時代に生きていたからこそ受け取れる感銘もあれば、案外未来から過去を見ているからこそよりヴィヴィッドに感銘を受ける場合もある。

ところで「名勝負」と言っても、プロレスの場合は当然ながら他の一般スポーツとはまったく異なる尺度が存在するのだが、その尺度もファンによって非常に異なる場合があるのでかなりややこしい。
例えば1987年10月4日にアントニオ猪木とマサ斉藤によって闘われた「巌流島の対決」という試合があった。
「巌流島」で無観客試合として行われ、2時間を超す試合が延々と続き、結局猪木が勝ったわけだが、この試合を「名勝負」とするプロレスファンもいるけれど、わたしにはまったく価値が分からない。
最盛期をとうに越したレスラー二人が無観客でだらだら試合をするのがどうして「いい」のか、当時も今も理解不能である。
そもそも猪木は、第二回IWGP王座決定リーグ戦決勝のホーガン戦あたりから企画がズレまくりでしかもかなり幼稚なものも多くなり、かつての猪木のカッコよさはどんどん見る影もなくなっていったという経過を辿っていたのだった。
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いっぷく

猪木の晩年は、正直あまり熱心には見ていなかったのですが、巌流島は例によって猪木の独断で決まったことらしいですね。それ自体が唐突ですね。普段やらないこと、でも猪木らしい発想の試合を行ったということで、評価しようという、まさに猪木ファンの意地のようなものがあるのではないでしょうか。
でも、プロレスラーがリングと観客を否定して別の場所で試合をするというのはどうなのかなあと。馬場は馳が入門した時、観客の場所とリングの見え方をいつも頭において、リングのどの場所でどういう試合をすればアピールできるか考えろと教えていたそうですが、猪木はそれを前提としたドラマ作りからも逃げたのではないかという気もしました。つまり、観客がどう見たか、ということがないプロレスの試合にいったい何の意味があるのかなあと。
2時間やったという「長さ」も自己矛盾だったような。ジャイアント馬場とハリー・レイスが60分やっているとき、猪木は「レスラーならそんなのはやろうと思えば誰でも出来る(から試合時間の長さを誇ろことは評価することではない)」というようなことを言っていたので、なんだ自分もマラソンマッチやってるじゃないかと思いました。
同じような理由で、つまりジャイアント馬場はNWAの権威を金科玉条としてきたからという理由で、馬場が初めてNWAをとった鹿児島のジャック・ブリスコ戦を名勝負に挙げる人がいます。6000万円動いたということを見て見ぬふりをして。
私は、ブリスコ戦はたいへんいい試合だったと思います。そういう政治的・商業的理由も否定しませんが、試合自体が馬場プロレスとしての完成度が高かったから、そう思っているのです。ですから、6000万円動いたという話を知っても、試合に対する評価は微動だにしませんでした。
馬場の試合は、てんやわんやとかトップライトの東京漫才と同じで、3本勝負で、最後まで見て、なるほど、だから1本目はあの技で決めたのか、とあとからわかるような試合をします。
古典的な東京漫才も、途中ギャグで笑うこともありますが、爆笑ではなくて、漫才全体から振り返って、なるほど、そうだったのかと思わせる芸です。
これは爆発的な面白さはなくても、飽きられずに結構長続きするスタイルなんですね。
猪木はどちらかというと1本勝負で試合を作るのが得意な人なのかなと思うので(たとえばドリーとの初対決でも、馬場はお互いのいいところを見せあって1-1でしたが、猪木は60分ノーフォールの0-0でしたね)、馬場とは違うドラマ作りの苦悩があったんでしょうね。

宝島の暴露本で、「新日本プロレス黄金時代の真実」だったと思いますが、ミスター高橋や西村修らは、猪木がいまの新日本マットに上がってもついていけず、今の新日本に入り込む余地はなく観客をしらけさせると言っていますね。けれど木村健悟は、逆に外道がマッチメイクしている今の「ゲームデザイン化」プロレスを批判しています。どちらも一理あって、その時々でプロレスの価値や概念がかわっていることが伺えて興味深いと思いました。
by いっぷく (2017-07-29 08:11) 

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