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●「人生のタイミングの神秘」~高知で『ワールドプロレスリング』開始時、アントニオ猪木の衝撃とは? [「言葉」による革命]

●「人生のタイミングの神秘」~高知で『ワールドプロレスリング』開始時、アントニオ猪木の衝撃とは?

末尾ルコ「プロレスと人生論の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

テレビ朝日系のネットがない高知でも、「アントニオ猪木VSモハメッド・アリ」の『格闘技世界一決定戦』は、確か試合当日の正午か午後1時からテレビ観戦できた。
それはネットされてないキー局の番組でも、人気や注目度の高いものは他局ネットの地方局で特別に放送するというやり方の一環で、「猪木VSアリ」戦は日本テレビ系列の高知放送で観ることができたわけだ。
この点に関しては、高知放送に感謝しなければならない。
「猪木VSアリ」戦をリアルタイムで観ていると観ていないとでは、プロレスファンとしてだけでなく、決して大げさではなく、戦後日本史を語る上でも大きな違いが生ずると思われるからだ。

しかしレギュラー番組として『ワールドプロレスリング』が放送され始めたのは「猪木VSあり」よりも後だったと思う。(この点は「確実な記憶」とは言い難いが)
もちろんテレビ朝日系ネットがないので、「金曜夜8時」であるはずはない。
それが何曜だったか、これも正直なところ明確な記憶がないが、とにかく「深夜帯」だった。
深夜0時は過ぎていたと思う。

そして初めてアントニオ猪木がプロレスの試合をする姿を観た時の衝撃は今でも鮮明なのだ。(ご存知の通り、「猪木VSアリ」は「プロレスの試合」の範疇ではなかった)

その瞬間までは馬場派と言うか、全日本プロレス派だった。
父が馬場好きだった影響もあったし、なにせ全日本プロレスしか映らなかったことは大きかったし、NWA系の強豪とされるレスラーが揃うマットが最上であるという日本プロレス史伝統の刷り込みも大きかった。
そしてプロレス誌でいかにも大仰な猪木のゼスチャーを写真で目にするのだけれど、それらも「動く姿」を見たことがないものだから、ジャンボ鶴田の「おーっ!」で十分満足していた。
『ワールドプロレスリング』放送が始まるまでのわたしの中の日本人レスラーヒエラルキーは、

1ジャイアント馬場 2アントニオ猪木 3(同格で)坂口征二、ジャンボ鶴田だった。

ところが「動くアントニオ猪木」と来たら、当時は正に「麻薬的」だった。

試合前、リングアナウンサーのコールを受ける時、ガウンの帯のを外し、両腕を上げる一連の動作からすべてが隅々まで計算されている。
表情は常に最高度に引き締まり、対戦相手を見据える目は他にないほど鋭い。
適度に伸ばし、軽くウエーブのかかった漆黒の髪の気が額から目の近くで揺れる。
そして何よりも、両手を上に向け、相手に(恋、恋)、いや、(来い、来い)と挑発するその姿。
(猪木なんて、馬場やレイスとやったらイチコロだぜ!)というわたしの頑なな思いは『ワールドプロレスリング』2回分ほどの視聴で吹っ飛んでしまった。

しかし今思えば、もしわたしが日本プロレス時代、馬場の後塵を拝し続けた猪木の姿を知っていたとしたら、このような衝撃的出会いはなかったに違いない。
「プロレス観戦経験の浅い子どものわたし」と「出来上がったアントニオ猪木」が出会ったからこその衝撃だったわけだ。

「いつ誰(何)と出会うか」・・・人生のタイミングの神秘である。

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いっぷく

たとえば、プロレスは自分が興味を持って見始めたのは1969年ごろからなのですが、その当時ですと、日本テレビは馬場の一枚看板でしたね。
プロレス中継のオープニングに流れる動画は、馬場が技を幾つかかけて最後に勝つところで、その後の三菱電機のコマーシャルまで馬場が出演して、徹底的に馬場をプッシュしていましたから、馬場が後に自分がテレビ朝日に出ることを「日本テレビは恩義がある」と反対していたのはよくわかります。
ただその時代を見たものからすると、全日本プロレスになってからが厳しいなという感じがしました。
ブルーザーやキニスキーは、明らかに歳をとって体が小さくなっているし、コワルスキーやイヤウケアはロングタイツをはくし、ブラジルはタイツのはき込みが深くなるしで、子供心にかつてのスター外人たちの衰えはわかりました。もちろん馬場自身も。
既存のスターを、無策に使うのが、80年代前半ぐらいまでの馬場の戦略で、やっぱりこれは、ないところから次々作り出していった新日本にかなわないわけです。
ただ、猪木は野心家ですが、それを現実のものとしたのは、新間寿あってこそですね。
WWWFとの提携にしても、ニューヨークのメインに出たこともある馬場とマクマホンシニアの関係をひっくり返して自分のところに呼び込んだのは、凄いと思います。
一方、馬場は、側近がいなかった。正確に言うと側近を全部追い出してしまった。サムソン・クツワダ、原軍治、米沢良蔵、佐藤昭雄…… グレート小鹿だけは、日本テレビから出向してきた松根社長が解雇したらしいですが。

これは、馬場と猪木の性格の違いもありますが、団体設立の経緯の違いもありますね。
猪木は、日本プロレスを追い出されて、何が何でも新日本プロレスで一旗揚げなければならないという気持ちがあったと思いますが、馬場の場合は、38歳で引退するつもりだったのに、日本テレビに独立させられて、現役を続けさせられたという思いが強く、だったら俺はオーナーとして好きにやらせてもらうよ、という開き直ったような意固地さがあったように思います。
by いっぷく (2017-10-15 02:57) 

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