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●末尾ルコの個人史「プロレス以前」~『日米対抗ローラーゲーム』と加藤茶の「ちょっとだけよ」。 [「言葉」による革命]

●末尾ルコの個人史「プロレス以前」~『日米対抗ローラーゲーム』と加藤茶の「ちょっとだけよ」。

末尾ルコ「昭和史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

『日米対抗ローラーゲーム』が放送されていたのが1972年から1975年までだというが、東京12チャンネルの番組だったわけで、つまり同局がネットされてない高知では他局ネットのローカル局が放送していたことになる。
ということは、高知での放送期間が1972年から1975年までだったかどうかはよく分からない。
が、個人史的に一つはっきりしているのは、スポーツ、あるいはスポーツ的なものに対して意識的になったのは、この『日米対決ローラーゲーム』が初めてだったということだ。
野球にも相撲にもまったく興味なかったし、プロレスの存在は「知らない」も同然だった。
わたしにとっての『日米対抗ローラーゲーム』の魅力は何と言っても女子部の存在、ヨーコとケイコの躍動感あふれるプレイと黒髪だった。
さらに米国人マネージャーが反則攻撃を得意としているアウトロー的ショウマンシップに子ども心をワクワクさせられた。
もちろん当時は『日米対抗ローラーゲーム』のプレイがどの程度「ショウ」だったかなど想像もしていなかった。
かと言って、「これはスポーツだ!スポーツに違いない!!」といったこだわりももちろんなく、要するに、「スポーツ」に対する認識が何もなく、『日米対抗ローラーゲーム』も(こういうものだ)と大変愉しく観戦していた。
長嶋茂雄の引退が1974年だから、ちょうど『日米対抗ローラーゲーム』放送の真っ最中であると、チェックして分かった。
野球に興味ゼロのわたしの目や耳にも「長嶋引退」と「永遠に不滅です」という言葉は嫌と言うほど耳に入ってきたが、この段階でわたしが野球に興味を持ち始めることはまったくなかった。
『日米対抗ローラーゲーム』はいつの間にか放送終了していた。
全日本プロレスは土曜日の夜8時に放送されていた。
しかしわたしは『8時だョ!全員集合』を観ていた。
ただそれは今考えると、それほど長い期間ではなかったようだ。
『8時だョ!全員集合』で最も強烈なインパクトとして残っているのが、加藤茶の

「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」であり、
「タブー」という曲に合わせて加藤茶がストリッパーの真似をしながら仰向けで片脚を上げるアクションは、わたしの小学校でも一大ブームだった。
わたしが「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」を「やらなかった」と書けば、それは嘘になる。

このギャグが流行ったのが、1972年から1973年だったそうな。

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いっぷく

『日米対抗ローラーゲーム』は、木曜の8時放送だったと思います。土居まさるが東京ボンバーズに肩入れする実況をしていましたね。ただ私はその「1972年から1975年」のうち、お受験の関係で紙媒体の情報を得るのが精一杯で、後半の2年ぐらいしかしっかり観ていないので、惜しいことをしました。
ですからローラーゲームは、その4年前のブーム、すなわちロサンゼルスサンダーバードが、デトロイトデビルズやニューヨークボンバーズなどと戦った中継の方がより記憶に残っています。このときはミッキー安川がサンダーバードに肩入れするレポーターでした。自分も鉄のローラーのスケートを買ってガラガラと音を立ててすべったものです。でもその頃はヘルメットはかぶっていませんでした。考えてみたら危ないですね。
東京ボンバーズの白いユニフォームは、ロサンゼルスサンダーバードをモデルにしたもので、サンダーバードのラルフヴァラディアスがコーチしていたと思います。
そのときのサンダーバードは、グレッグ・ロバートソンとリチャード・ブラウンという黒人2選手が主力だったのですが、女性陣は覚えていません。めずらしいんですけどね。女子プレーヤーを覚えていないなんて。たぶん技術的に未熟だったんじゃないかと思います。
それだけに東京ボンバーズのレディースの水準は高かったんじやないでしょうか。といってもヨーコとケイコだけで、ケイコの妹のキミエはちょっとアレでしたけど(笑)彼女はジャマーになって勢い良く飛び出したものの、トラックのカーブを曲がりきれずそのまま外に飛び出してしまったこともありました。
録画だからということもありますが、8時45分ごろに、サンダーバードや東京ボンバーズが奮起して最後のジャムで大逆転する展開が毎週のお約束でよかったですね。でもそうするためには、それまでのジャムで悪玉チームが逆転のあり得る範囲のリードを保っていなければならないので、考えてみると両チームの選手たちはそうした計算をしながらプレーしているわけで、高度な技術を持っていたんでしょうね。いずれにしても、善玉と悪玉がはっきりしていて、わかりやすくて面白い競技でしたね。
以前も書きましたが、プロレスはニューヨークに比べるとロサンゼルスは格落ちだったので、ローラーゲームはそれを補うような位置づけで、ロサンゼルスサンダーバードがアメリカ一という役割だったのかなというふうに思います。もっとも、それはあとから気づいたことで、当時はローラーゲームはプロレス的な団体競技、ぐらいの認識が精一杯でした。

全日本プロレスも、放送当初はお受験で観ていないのです。デストロイヤーが馬場の軍門にくだったというのも、進学塾の隣りに座っていた少年から聞きました。
一応テレビが見られるようになってからは全日本を観ていました。加藤茶はその頃プッシュされていましたが、やっぱり加藤茶の笑いはお子様向けなので、私も中学になリ、「へ~クション」とか「あんたも好きねえ」という笑いからはそろそろ卒業する時期でした。
ドリフは、売れる前は荒井注がメインで、加藤茶はガキ大将的な位置づけでしたね。
http://fromsite.info/sengoshigazou/dorifu.jpg
これは67年ぐらいだと思いますが、このころのドリフはなんか大人っぽくてクレージーとタイプが似ていてよかったですね。売れれば売れるほど、ちょっと下品になったように感じます。

ただ、全員集合ではキャンディーズがレギュラーであるほか歌手のゲストも3組ぐらい出てましたから、ちょうどアイドルに目覚めた時期で、それは気になっていました。
で、全日本が例の鹿児島のブリスコからNWA奪取した試合は生中継だったのですが、2本目まで見て、「どうせまた引き分けとかでタイトル移動しないんだろう」と決めつけて全員集合にチャンネルを切り替え、終わりに近づいたので全日本に戻したら、馬場が鶴田の肩を借りてベルトを巻いてインタビューを受けているのでびっくりしてしまいました。まだビデオもなかった時代ですからそのときの悔しいことといったらなかったです。

by いっぷく (2018-02-08 02:55) 

hana2018

さすがにいっぷくさん、お詳しいですね。
ローラーゲームはリアルタイムで見ていたはずなのに、ほとんど記憶にないのです。
東京ボンバーズのチームメンバーたちが髪を振り乱して走る、乱闘サービスをする、確かに面白かった。東京体育館での試合へは友人たちと観に行ってしまったくらいでした。
それぞれが日系人っぽい名前で通していたのは、やはり本場アメリカに対するコンプレックスの現れだったのでしょうか。
by hana2018 (2018-02-08 23:11) 

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