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●日本プロレス界のトップ オカダカズチカの時代は、「屈折のない時代」なのか? [「言葉」による革命]

●日本プロレス界のトップ オカダカズチカの時代は、「屈折のない時代」なのか?

末尾ルコ「プロレスの話題で知性と感性を鍛えるレッスン」

現在日本のプロレス界でトップは誰かと問われれば、プロレスファンなら普通は「オカダカズチカ」と答えるだろう。
新日本プロレスのIWGPへヴィー級王者で、しかも「一時的王者」でない存在が、興行規模や安定的経営状態、そして試合クオリティなどを含めて、「日本でトップ」だという図式は、かつて新日・全日のメジャー2団体に加え、UWF系や、やたらと一般層にまで浸透した大仁田厚が存在したインディ団体も乱立していた時期よりもずっと分かりやすくはある。
そこで現在は「オカダカズチカ」ということになり、確かに公称190以上のバランスの取れた体格に整った顔立ち、そしてプロレス史上屈指と言っても差し支えないであろう際立った運動能力は、「平成プロレス界のトップ」と称するに相応しいと、わたしも思う。
正に、「平成プロレス」のトップであり、同じ新日本のトップレスラーとして名を成してきた、棚橋弘至や中邑真輔、あるいは現在負傷欠場中の柴田勝頼らにはまだ漂っている「昭和のプロレスの陰翳」がまったく感じられない。
それがいいことか悪いことかと問われれば、「悪いこと」とまでは言わないけれど、「いいとは言い難い」話ではある。
谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』は日本文学史上古典的地位にあるエッセイとして知られているが、どのような文化であっても陰翳があるところに深みや味わいだけでなく、万華鏡のような魅惑が創出されるものなのだ。

オカダカズチカにおける陰翳の欠如。

それはもちろんオカダカズチカがプロレスに興味を持ち、プロレス入りしてから現在に至るまでの過程で、それ以前の世代のレスラーたちが持たざるを得なかった「屈折」を経験していないところから来ている。
しかしオカダカズチカに、本当に「屈折」はないのか?

ここでプロレスから離れ、「人間」あるいは「人間社会そのもの」に目を向けてみよう。

「屈折」のない「人間」あるいは「人間社会」と、あなたはつき合いたいと感じるだろうか。

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いっぷく

プロレスムックで、いつだったか、プロレスの実況アナや新聞記者や雑誌記者たちが集まって昭和プロレスを回顧する座談会があった時、徳光和夫の言ったことが私は印象に残りました。
曰く、「他の世界で挫折した人たちが多いので、心の痛みのわかる人たちが集まっているからプロレスが好きだ」というような内容でした。
力道山は角界で大関になれず、ジャイアント馬場はプロ野球を22歳で整理され、アントニオ猪木はブラジルからの出戻り、坂口征二は柔道でヘーシンクにも神永にも勝てず、その他、プロ柔道を作れなかった遠藤幸吉、元横綱なのに食うのにも困っていた東富士、部屋の分裂騒動でやめざるを得なくなった天龍源一郎、プリンス・トンガ……、まあ要するに、前職「上がり」ではなく、前職「くずれ」の「異形の者」なんですよね。
この人たちは、プロレス以前の人生で「後がない」状態になってしまった人たちです。
それがだんだん、何かタイトルを持った華やかな学卒の人たち、谷津嘉章とか三沢光晴とか菊池毅とか本田多聞とか永田裕志とか中西学とか石澤常光とか秋山準とかが入門するようになって、この人たちは入門前は挫折がなかったかもしれないけれど、だからこそ入ってから苦労した人たちですね。
そしてオカダ・カズチカ。闘龍門出身で、一応“生え抜きでない”ことによる挫折(ロープワークなど基礎的なことを全部ダメ出しされて新日本流に改めさせられた)を経験したそうですが、ちょっとスケールとしては小さいかもしれませんね。
21世紀になって、プロレスに対する評価もプロレス側の心構えもかわってしまいましたから、昔は「八百長」呼ばわりに耐えるというプロレスの前提があって、今はそれも公然となってしまいましたから、そういう耐える苦しさのようなものもなくなりました。
正直なところ、オカダ・カズチカ物語という本があっても、どうしても読みたいという気持ちはないですね。
by いっぷく (2017-06-09 01:23) 

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