SSブログ

●わたしが『あしたのジョー』力石徹の追悼式に対してフラットな感情しか持てなかった理由。 [「言葉」による革命]

●わたしが『あしたのジョー』力石徹の追悼式に対してフラットな感情しか持てなかった理由。

末尾ルコ「プロレスと漫画と昭和文化史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

わたしが子どもの頃、移動図書館を徹底的に利用していたというお話はこの前したが、文字だけの本も興味を引いたものを中心にどんどん読んでいったが、同時に漫画もよく読んでいた。
漫画に関しては、10代の終わりくらいからぷっつり読まなくなるのだけれど、それはまた別の機会にしよう。
子どもの頃、小学校の何年くらいからかは今すぐには思い出せないが、『少年ジャンプ』『少年チャンピオン』『少年マガジン』の三誌は必ず読んでいた時期がある。
『少年キング』は普通読んでいなかった。
(おもしろくない)という印象があったのか、他に理由があったのかははっきりしないが、『キング』は読んでいなかった。
他の三誌に比べると、「地味」というイメージはおっていたのだと思う。
他にも、『冒険王』、そして後発だが、『コロコロコミック』も読んでいた。
すぐには詳細に思い出せないが、それぞれにその時々、(おもしろい)と感じる漫画があったのは間違いなく、またいろいろ調べたら興味深い「事実」が出てくるに違いない。
もちろん週刊漫画誌を何冊も定期購読できるわけはなく、隣の貸本屋をフルに利用していたわけだ。
『タイガーマスク』や『ジャイアント台風』は連載していたものを読んだ記憶はなくて、既にコミックスになっていたものを、貸本屋や古本屋を利用しつつ、読める巻から読んでいったのだろう。

ところで1970年に『あしたのジョー』の力石徹の追悼式が行われたことは、当時のわたしも話題としては知っていた。
もっともこの追悼式が寺山修二の主宰によるものだということは最近知ったのだが。
わたしはしかし、『あしたのジョー』を思い入れを籠めて読んだことはなく、アニメの方もさほど興味はなかった。
これは間違いなく、わたしがプロレスファンになり、そしてボクシングも観るには観ていたけれど、「ファン」というほどには一度もなっていない事情と通底したメンタリティだと思う。
それは、わたしにとっての、「おもしろ味」の違いと言うか、子どもが読んでもツッコミどころ満載の『タイガーマスク』や『ジャイアント台風』に比べ、『あしたのジョー』にはそこまでのツッコミどころがないと言うか。
まあしっかり読んでいれば、『あしたのジョー』にもかなりのツッコミどころはあるのだろうけど、そして根底に流れるストイシズムはわたしの好むところではあるのだが、乗り切れなかったというのは、「パンチだけしか出してはならず」「細かな階級制を取っている」ボクシングという競技に対して深い興味をどうしても持てないという究極的な理由と、そこここに感じられるナルシスティックな雰囲気などにもよるのだろう。

nice!(28)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

nice! 28

コメント 1

いっぷく

実は私も「あしたのジョー」はリアルタイムではあまり興味がわきませんでした。単行本になってもそれほどは……。アニメ番組を見て、じゃあ原作も一応目を通しておくか、という感じでしたね。
理由は、やはりプロレス>>>ボクシング、だったからだと思います。
プロレスは毎週見られて、日本プロレスと国際プロレスと、私が子供の頃は、世界のブロレスというその当時からさらに10年前のアメリカのプロレスを見てたので、馴染みが深くなりました。そして「タイガーマスク」と「ジャイアント台風」がありましたし、何より東スポが1部10円という子供の小遣いで買えたことが大きかったですね。
その点、ボクシングは巡業で毎日試合をして、ということはないですし、
>「パンチだけしか出してはならず」「細かな階級制を取っている」
という点も、たしかにプロレスに比べてつまらないと思いました。
当時の雑誌の「プロレス&ボクシング」も、ボクシングの所は飛ばして読んでいましたね。
ただ、梶原一騎自身は、本当はボクシングに一番関心があり、また少年院出身ということからも、「あしたのジョー」こそがいちばん思い入れが深かったのかもしれません。

もっとも、ちばてつやは、最初の方は原作を無視して自分の裁量でずっと描き進めたので、梶原一騎が怒り狂ったけれども、自分の世界観で作品の基礎を作ったから長続きしたというようなことが、斎藤貴男の「梶原一騎評伝」にかかれていたと記憶しています。
「空手バカ一代」ではつのだじろうがトラブルで降りちゃいましたからね。私は後任の漫画家に何かあるわけではないですが、つのだじろうがやめた時点でしらけてあの作品を読むのをやめました。
一方、辻なおきは、梶原先生にだいぶ振り回されたようで、たとえばタイガーマスクの、ルリ子さんがマリア様だったかの話(記憶不鮮明)を健太にするエピソードは、辻なおきのオリジナルだったらしいですね。最終回が唐突だったのも梶原先生のせいらしいですし。
「ジャイアント台風」で、馬場の顔を土に埋めて、デューク・ケオムカがジープで引く特訓(笑)は、さすがに辻なおきが「これではあまりにも現実離れしています」と申し立てたそうですが、梶原一騎先生は、「いいんだよ、それで馬場の顔がああなったんだから」と言い返したというのですから、馬場のことをかなりコバカにしながら作っていたのかもしれません。
漫画では、馬場がルーテーズに勝って、芳の里がご褒美で休みを与えて、馬場が母親を東京に呼んでいろいろ見物させるシーンが終わりの方にありましたが、あれは実話で、馬場が母親が車に酔うからと電車で移動して当時話題になった(つまりメディアで馬場の母親の顔も出た)のですが、漫画の母親の顔は馬場と同じになっていましたね。
あれだけリアリティを大事にしていた辻なおきが、なぜ馬場の母親だけ、ああいう描き方をしたのか。辻なおきも最後の方になって疲れちゃったのかもしれませんね。、
by いっぷく (2017-08-25 02:02) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。