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●2017年『紅白歌合戦』~内村光良の司会は本当に「絶賛」されるべきか?丘みどりの歌唱時間、三山ひろしの「けん玉、ギネスに挑戦」はいかがか? [「言葉」による革命]

●2017年『紅白歌合戦』~内村光良の司会は本当に「絶賛」されるべきか?丘みどりの歌唱時間、三山ひろしの「けん玉、ギネスに挑戦」はいかがか?

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

2017年大晦日は『紅白歌合戦』を丘みどりが歌う前後まで観たが、内村光良や桑子真帆の司会進行ぶりがつまらなく、まあ食事も摂って眠くなったこともあるし、そもそも中盤から後半にかけては「ぜひ観たくない、聴きたくない」出演者が目白押しなものであるから、起きている価値はわたしにとってはない。
ところが2018年となり、ネットでは内村光良の司会ぶりに概ね絶賛のプチ嵐。
かくも「わたし」と「世間」の感覚が違うものかとあらためて強く認識した次第である。
もっとも、「紅白の司会進行とはそもそもどうしようもなく退屈でつまらないもの」と理解しておれば、「その割には内村光良はましだった」と言えないこともない。
確かに前年の、「『シン・ゴジラ』とコラボ」という意味不明の企画を延々と放送した救いようのなさに比べれば、「いくぶんまとも」だったとは言えるのかもしれない。
しかしもともとわたしはウッチャンナンチャンのちまちました世界観の逆には笑えず、まあ「ぜんぜん笑えない」とまでは言わないけれど、本質的に肌に合わないものだから、内村光良の司会ぶりにもそのバイアスがかかっているとは正直なところ言える。

それにしても演歌歌手に対する扱いはいただけず、五木ひろしや石川さゆりら大御所はともかくも、念願の初出場を果たした丘みどりが歌えたのは、『佐渡の夕笛』の「1番+3番の半分」と、短いのである。
通常の歌番組では基本、「1番+3番」なのだけれど内村光良を中心としたコントが随所でだらだらと続き、放送時間は長すぎるほどたっぷり取っているのだから、せめて普段通りの長さで歌手たちには歌わせてあげるべきではないか。
さらに悲惨だったのは三山ひろしの番であり、歌唱の最中に「けん玉ギネスに挑戦」と、これまた意味不明の企画を並行してやっていて、よくあんなこと事務所が許したなあと、若手演歌歌手はやはり随分と立場が弱いなあと再認識した次第である。

などと真っ当なことを言おうが書こうが最早『紅白歌合戦』が、「歌手が心を籠めて歌う」姿を観て聴いて堪能するというコンセプトの番組からは大きく逸脱してしまっている現状を鑑みると空しいだけである気もする。
今日び口パクのすべてが悪いとはわたしも言わないが、しかしいかにも口パク出演者が多くなり過ぎていて、

「人間の優れた歌手がその魂と技術を存分に発揮して歌唱する」

歌を聴く格別な感動というものがどんどん忘れ去られていく可能性も懸念される現状ではある。

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ぽちの輔

好みの裏番組が無かったので
久しぶりに見てましたけど
けん玉は可哀想でしたね^^;
by ぽちの輔 (2018-01-08 07:13) 

lequiche

すみません。けん玉って何ですか?(^^;)
全然記憶にないってことは、
そんなにマジメに見てなかったってことらしいです。
実は安室奈美恵の記憶もないんです。
そんな人、いたっけ? という感じで・・・。(^^;;;)
by lequiche (2018-01-08 10:52) 

いっぷく

母が年越しの入院で、夜の8時頃面会に行った時、紅白を見ていたので、音無しで画面だけ久しぶりに紅白を数分見ました。

>「1番+3番の半分」と、短いのである。

これは私の憶測ですが、一部の力のある事務所や歌手が、フルコーラス歌うことを様々な事情から断ってきたり、自分たちは歌うけれど格をはっきりさせるために他の歌手の歌える時間を短くしろと干渉したりしたため、調整の結果そうなったのかもしれません。
つまり、局側が過剰な企画を用意したために歌が短くなってしまった可能性と、歌手および事務所側の無理難題を受けて局が調整した可能性とが考えられますね。
いずれにしても、今は瞬間視聴率を見るため、フルコーラス歌っている間、視聴者が一瞬他のチャンネルに移すようなことがあるので、事務所側は長く歌わせることに必ずしも積極的ではない場合がありますね。
「チャンネル」と書きましたが、視聴者側も昔と違ってリモコンのボタンひとつですから、チャンネルの離れている局を行ったり来たりするのも一瞬ですから、3分歌えば、途中の1分は別の番組の様子も見ておくとかありえますし。

>しかしいかにも口パク出演者が多くなり過ぎていて、

Perfumeが紅白に10回も出ているんですね。彼女たちの動画は、個人的にはよく見ます。広島人らしい顔がなんか親しみがあって。私は広島とは全く縁がないのですが、以前交際したことのある広島がルーツの女性がノッチみたいな顔をしていたのです。
ただ、彼女たちの場合、従来の歌手とは質が違うというか、撮影の技術や音響技術などが加わったコンテンツとして評価するものですね。
クレージーキャッツのピアニスト・桜井センリが、平成に入ってからは「音楽」ではなく「音響」だと何かのインタビューで言っていましたが、

>「人間の優れた歌手がその魂と技術を存分に発揮して歌唱する」

だけではなくなっているということをいいたかったのでしょうね。
ということは、「歌手」の表現の仕方が良し悪しを別にして変わってきたのかもしれません。

直立不動でマイクから離れてお腹から歌う時代から、マイクに口をつけて歌うようになった「歌手の変化」を、私の両親は批判していましたが、今は歌唱力そのものがざまざまな技術でカバーできるようになりましたね。
浅田美代子とか、下手くそな歌いっぷりはそれはそれでアイドルとしての価値があったのかもしれません。
たとえば今、浅田美代子が、現在の様々な技術によって作られたらどうなんだろうなどと考えると、たとえきれいでうまく見えても、つまらないかもしれませんね。
by いっぷく (2018-01-08 11:23) 

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