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●今も活動中、ペドロ&カプリシャスと二代目ボーカル 高橋真梨子、あるいは重信房子の「時代」。 [「言葉」による革命]

●今も活動中、ペドロ&カプリシャスと二代目ボーカル 高橋真梨子、あるいは重信房子の「時代」。

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

ペドロ&カプリシャスが「ジョニーへの伝言」、「5番街のマリー」を大ヒットさせたのが1972年。
当時のわたしはけっこうな子どもであって、しかしそれでも「ジョニーへの伝言」、「5番街のマリー」は記憶し、しょっちゅう歌っていて、もちろん今でも歌える。
とにかく、「カッコいい!」「素敵!」というのが同2曲であって、その後このようなヒット曲は生れてないのではないか。
ソロとなった高橋真梨子も幾多のヒット曲を飛ばしているが、ペドロ&カプリシャス時代の静かにして熾火のような地熱が伝わってくるような楽曲ではなくて、ややベタに歌い上げるものが中心となっている。
それはもちろん高橋真梨子のソロはペドロ&カプリシャスではないのだから当然でもあるし、「ジョニーへの伝言」、「5番街のマリー」生まれ、大ヒットしたのは70年代初期という時代との関連ももちろんあったのだろう。

この2月、BSの番組でペドロ&カプリシャスの特集があって、高橋真梨子が2台目ボーカルであり、現在も5代目ボーカル桜井美香をフィーチャーして活動を続けていると知った。
リーダーのペドロ植村はずっとリーダーとして在籍しているという。
初代のボーカルは前野曜子という人だったそうだけれど、当時の映像を見るとファッションも含めて出来上がっていて、なかなかカッコいい。
しかしやはり高橋真梨子(当時は高橋まり)の、長い黒髪があまりに印象的な容姿のカリスマ性は飛び抜けたもので、これはあくまで「容姿だけ」の話であるが、日本赤軍の象徴として世界を震撼させた重信房子との共通点もあって、やはり「時代」を十分に感じさせてくれる。

日本赤軍が特にイスラエルのダッカ空港で起こした乱射事件などのテロリズムをわたしは後追いで知ったに過ぎないが、昭和史や世界テロリズム史関連の書籍に掲載されていた重信房子は常に若く長い黒髪で、時に機関銃を誇らしげに持っていた。
そんな重信房子が後年逮捕され、日本のメディアに映し出された時には、あの「写真の重信房子」を思わせる外観がまったく消えていたのに驚かされた。

話はずいぶんと逸れたが、ペドロ&カプリシャスにしても掛け値なしに「昭和の名曲」と称して差し支えない楽曲を日本の音楽史に刻印している。
そして現在までずっと活動しているのに、それを知らなかったわたしもつまり「興味を失っていた」わけだが、やはりメディアの「火っとがない=落ちぶれた」とする態度に大きな問題があるのは間違いない。

つまり、「唄」や「音楽」とまったく向かい合ってないのである。

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いっぷく

ペドロ&カプリシャスの高橋真梨子へのメンバー交代は、私が子供だったせいか、いつのまにか行われたという感じがしました。子ども心には、大人の難しい歌のような印象がありましたね。じゃあどういうのが子ども向きなのかといいますと、子供向きというか、子どもでも歌いやすいということで、天地真理とか黛ジュンとか小川知子とか小柳ルミ子とか、ああいう方々です。
そうですね、当時似たような髪型で思い浮かぶのは、島田陽子ですかね。高橋真梨子の声は独特のもので歌手になるための声のような気がしますね。

重信房子ですか。1969年で時間が止まっている左翼運動経験者のある知人は、重信メイと知り合いであることが誇りで、一緒に撮った記念写真をFacebookによく投稿しています。永田洋子が冴えなかったので、重信房子がヒロインだったのでしょうね。
いつまで昔の話にしがみついているんだろう、と思いましたが、私も昭和プロレスにしがみついているのであまりひとさまのことはいえないかもしれません。
でもまあ、オウムにしても、幹部に髪の長い女性と、わらべの倉沢淳美に似ている女性を前面に出していました。
見栄えのいい女が、対外的な目くらましになっていることがあるので気をつけなければと思ってはいますが、金賢姫の記者会見を見たときは、正直なところ、ヨロヨロっときてしまいました。←もちろんそれは当時の話です

>「大木金太郎のバックに韓国大統領がいた」
国費で興行ですから、すごいですね。
朴正煕大統領夫人が暗殺された頃なので、プロレスで国を明るくしてほしいと強く求められていたそうです。
韓国にはWWAという団体があるのですが、ボボ・ブラジルが当時、そこの認定のUSヘビー級チャンピオンでしたね。ボボ・ブラジルは高額報酬だと思いますが、当時の韓国は貨幣価値が日本の3分の1ぐらいだったので、外人の招聘は日本の3倍ぐらいの負担があったと思います。
韓国でUSヘビー級チャンピオンを認定したって仕方ないだろうと思うんですけどね。
ところが、そのアントニオ猪木戦を境に、プロレスに金を出す政治に国民の不満が出たため、それが減らされ(最終的にはゼロになリ)、金の切れ目が縁の切れ目なのか、新日本プロレスがシビアに、韓国遠征の協力を打ち切ったことで、大木金太郎は全日本プロレスに出戻ったということです。
千圭徳道場は、その後も新日本とパイプを持ち続け、新日本が韓国遠征を復活して千圭徳の試合が放送された時もありましたね。
もうひとりの「大物」の張永哲は、全日本のリングに上がりましたが、ずっと前座でした。
何しろ1966年だったか、グリーンボーイの頃の大熊にセメントで負けそうになって、配下のレスラーがダダっとリングに上って大熊を襲撃してごまかした事件があったぐらいなので、韓国の序列がナンバー3でも、馬場の評価は厳しかったようです。

by いっぷく (2018-02-24 03:15) 

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