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「花を美しい」と思わない感性(?)  「カラヴァッジョ」ティモシー・ウィルソン=スミス著 宮下規久朗訳 西村書店 [ルコ的読書]

花を見ても何も感じない人がいる。
「そんなバカな」と思うかもしれないが、いるのだこれが。
「教育」ということを考えるとき、子ども時代に闇雲に英会話などを習わせるよりも、例えば「花を美しい」と感じ取れるような「教育」の方が人間として必要なのではないか。
もちろん全ての人が花を美しいと思わなければならないということはない。
「花は美しくない」という美意識があってもいいだろう。
しかしそれは美に対する感覚が鈍いゆえの「無頓着」ではなく、美意識を研ぎ澄ませた上での「反論」であればと思う。
カラヴァッジョの絵の中にも、少なからず花を見ることができる。

「花を上手に描くことは人物をうまく描くのと同じくらい難しい」と彼はジュスティニアーニに語ったが、花の絵を人物画の上位に置くことはなく、実際には歴史画家として傑出し、キリスト教や古代の情景を劇にしうる者になることを目標とした。

   「カラヴァッジョ」ティモシー・ウィルソン=スミス著 宮下規久朗訳 西村書店
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「明るい」「暗い」の対立 カラヴァッジョの愛した場所  「カラヴァッジョ」ティモシー・ウィルソン=スミス著 宮下規久朗訳 西村書店 [ルコ的読書]

いつからだろう、現代の日本人は、「明るい」に大きな価値観を置くようになった。
人間を「明るい」「暗い」に分類し、「暗い」と烙印を押された人間に対して、マジョリティのつもりの「明るい」と称する人間たちが平気で差別する世の中が長く続いて来たし、もちろん今も継続中である。
しかし神経症的に、あるいは思考停止的に「明るい」の側にいようとする人間たちには、生涯かかっても見えない景色があるものだ。


彼は、常に戸外の空気の中で制作19世紀の風景画家とは逆に、壁の左上から一条の光が差す薄暗い穴蔵を愛した。

   「カラヴァッジョ」ティモシー・ウィルソン=スミス著 宮下規久朗訳 西村書店

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わたしにとってのカラヴァッジョ。 「ホロフェルネスの首を切るユディト」の血 [ルコ的読書]

わたしにとってのカラヴァッジョの魅力。
それは通俗性と聖性の混淆…と言いたいところだけれど、実はカラヴァッジョの場合、圧倒的に通俗性が勝る。
歴史的に大書すべき画家たちの中で、ここまで通俗性が勝っている人は珍しいのではないか。
その通俗性というのは多分に「覗き見」的であり、極めて「センセーショナル」なものだ。
今でこそ「芸術」と言う不動の地位を築いている「絵画」というジャンルだが、カラヴァッジョの絵などを観ていると、かつては映画のような役割を果たしていたのだなあと想像できて楽しい。
しかも「映画」と言っても「芸術映画」とは限らず、ホラー映画の要素もたっぷり。
わたしの愛する1枚、「ホロフェルネスの首を切るユディト」など血がドバ~ッである!


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ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」を美しいと感じますか? [ルコ的読書]

「美」に対する人間の感じ方は多様・・と言うか、ある程度「訓練」の時期がないと感覚も磨かれないという実感がある。
例えば世界的に有名で文句なく「誰が観ても美しいと感じる」作品の一つにジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」があると思うが、この作品を「気持ち悪い」という人も少なからずいるのだ。
と言うか、美しいですよね、「オフィーリア」。
しかも分かりやすい。
もちろん何を美しいと思うかは個人差があっていいのだが、「オフィーリア」をまったく美しいと思えないような人生を送っていていいのだろうかとは強く思う。

その点で言えば、カラヴァッジョの絵など鼻から受けつけないという人が多くても驚かない。
画力の凄さは誰もが認めざるを得ないだろうが、ほとんどの作品に満ちているのは「異様さ」なのだから。

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「殺人者」カラヴァッジョ? [ルコ的読書]

カラヴァッジョの生涯は何度か映画化もされているが、それも「当然」というような人生を歩んでいる。
特に「暴力」にまつわるエピソードは数知れず、その中でも「最悪」のものが1606年に決闘の相手を殺してしまったという事実である。
つまりカラヴァッジョは「殺人」を犯した人間なのだ。
もちろん現代とは法や倫理観の違う時代のこと、単純に「殺人」というイメージを比較できるわけもない。
また作者本人と作品ははっきり区別されるべきだが、カラヴァッジョの過激な生活ぶりが彼の絵に影響が無かったとはとても思えない。

1606年の「殺人」によりローマを離れたカラヴァッジョだが、他に地でも「暴力」「投獄」「脱獄」など、「あんたはジャック・メスリーヌか?」という活躍ぶり(?)を記録している。
しかし驚くべきは、そんな期間にも彼の圧倒的な創作力はまったく衰えなかったということだ。
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カラヴァッジョの歴史と日本の歴史 [ルコ的読書]

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(カラヴァッジョ)は1571年に生れ、1610年に死んでいる。
1571年というと、世界史的にはレパントの海戦が起こった年で、日本では元亀2年、織田信長が延暦寺を焼き討ちにした年だ。
1610年はガリレオ・ガリレイが木星を観測して月以外の衛星を発見した年で、日本では慶長15年に当たる。
ちなみに慶長20年は大坂夏の陣が始まり大坂城が落城、豊臣氏が滅亡した年で、同年7月には武家諸法度が制定されている。

と、カラヴァッジョの生きた時代と日本の少し見比べてみたが、多くの日本人が「国際感覚」をもう一つ持てないのは学校で「日本史」と「世界史」がまったく「別世界の出来事」のように教えられるのも一因ではないかと思うのだが。
とは言え、一般のアメリカ人などもさほど国際感覚はないというから、大事なことは「一般的」などと括られる範囲に入らないことか。

さて・・と。
え、カラヴァッジョの話題は?
次回から本格的ですよ。(ニヤリ)
え、ひっぱってる?
それはきっと気のせいでしょう。(うふふふ)
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「カラヴァッジョ」という名  「カラヴァッジョ」ティモシー・ウィルソン=スミス著 宮下規久朗訳 西村書店 [ルコ的読書]

好きな画家はいろいろいるが、その時々で誰かが「マイブーム」という状態になることがある。
漠然と「好き」な画家の一人である状態から「マイブーム」へと変化したときがある種の「チャンス」で、その画家に対する理解や知識が一気に上昇する可能性を秘めているわけだ。
そして今、もうお分かりですね(タイトルに書いてるし 笑)、カラヴァッジョが「マイブーム」なのである。
とりあえず手元にあるので〈「カラヴァッジョ」ティモシー・ウィルソン=スミス著 宮下規久朗訳 西村書店〉 を中心に話を進めるが、要するにカラヴァッジョなのである。

カラヴァッジョ・・、まず名前がいい。
わたしは言葉の持つ喚起力を愛しているのだが、「名前」の音ももちろん重要だ。
(もっとも最近日本で子どもの名に「尋ねなければ分からない漢字」などを当てる人たちが批判されることがあるが、確かにそんなことをすると「名前負け」してしまう可能性が高い)
カラヴァッジョというのは実に覚えやすく忘れにくく、しかも想像力をかき立てる音だ。
もっともカラヴァッジョの本名はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(カラヴァッジョ)である。

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予測するものではない未来   「中央公論」(2009年11月号)の「10年後、稼げる業種はどこなのか会議」(勝間和代・小幡績・江上剛)  [ルコ的読書]

夫婦やカップルの問題に関する話が長くなってきたが、人間関係の基本の一つだけに話題は尽きない。
しかし「尽きない」と言っていては次の話題に移れないので、このへんで締めくくろう。
夫婦やカップルの問題に関しては、これからも様々な形で言及していく。

勝間和代の本を取り上げていたので、もう一つ彼女の発言。
「中央公論」(2009年11月号)の「10年後、稼げる業種はどこなのか会議」(勝間和代・小幡績・江上剛)という対談でのもの。
勝間和代に対する好き嫌いはあっても、次の発言に反対する人はあまりいないだろう。
「当然」のことであるけれど、やはり「うん」とうなずいてしまう。


勝間 だから、「未来というものは予測するものではない。自分で作るものだ」と普段から考えていないと、リスクに対応できないと思うんです。

   「中央公論」(2009年11月号)の「10年後、稼げる業種はどこなのか会議」(勝間和代・小幡績・江上剛)

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「見る目」を養う重要性   「勝間和代の日本を変えよう」勝間和代(毎日新聞社) [ルコ的読書]

「大嫌い」になりそうにない相手と結婚することができれば誰も苦労はしない。
だから、「大嫌い」になりそうにない相手と結婚すること、などという言い方はほとんど「冗談」に聞こえるだろうし、確かに半分は「冗談」なのだけれど「半分」は冗談でない。
けれど傍目に観て、「こんな組み合わせじゃ長続きしないだろう」というカップルはとても多い。
当人同士にとっては「大きなお世話」なのだろうし、「蓼食う虫も好き好き」「だめんず」などという言葉が彼らを後押しする。
もちろん「人の恋路」の邪魔するつもりはないが、明らかに「いいのかね、これ」など思われるカップルをただ見過ごすというのもじれったいな、ということもある。
ちなみにわたしは結局「だめんず」を自慢している倉田真由美的風潮はあまり好きではない。


勝間 離婚する負担が重くてできないんですよね。お互いに。
西原 たがいに体力温存してるしかないみたいな。

        「勝間和代の日本を変えよう」勝間和代(毎日新聞社)

上記のような状態になっている夫婦というのは非常に多く見られるが、そうならないためにも「男(女)」を見る目を養うことは重要だ。


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「大嫌い」にならないために   「勝間和代の日本を変えよう」勝間和代(毎日新聞社) [ルコ的読書]


西原 両方が大嫌いになっている家がありますからね、たくさん。

「勝間和代の日本を変えよう」勝間和代(毎日新聞社)



「両方が大嫌いに」という部分はかなり極端だが、現実にわたしも多くの実例を見てきた。
「両方が大嫌いに」なっている夫婦というのはまさしくとりつく島のない雰囲気を周囲にまで漂わせており、とても「この関係を修復できる」などと思わせないだけの「迫力」(?)がある。
けれど「大嫌い」という雰囲気を漂わせてなければうまくいっているのかと言えば、これがまたくせもので、比較的高学歴高収入の夫婦ほどギリギリまで「うまくいっているという芝居」をするという傾向にあるようだ。

さて「離婚」や「離婚率」に関しては微妙な問題なので軽はずみなことを言うつもりはないが、「大嫌い」とまで感じるようになれば別れるしかないのかなというのは否めない。
「大嫌い」になってからでは手遅れなので、結局「大嫌い」になるまでに対策を立てておくしかないのではないだろうか。
ではどのような対策があるか。
端的に言えば、「大嫌い」になりそうにない相手と結婚することではないか。(笑)


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