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●「タトゥ問題」~例えば、テニス選手とサッカー選手、そしてそれは、「差別・偏見」か?それとも「無知・甘え」か? [「言葉」による革命]

●「タトゥ問題」~それは、「差別・偏見」か?それとも「無知・甘え」か?

末尾ルコ「社会観察の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

「タトゥ」についてまた一つ書いておきましょう。
「外国ではタトゥなんて当然」などと書く向きもあるけれど、ワンポイントの小さなタトゥならまだしも、でっかいタトゥはやはり「当然」ではない。

例えば同じスポーツ界でも、サッカー選手や総合格闘技の選手はやたらと体中にタトゥを入れている人が多いけれど、テニス界にはほとんどいない。
サッカーもテニスも競技人口が極めて多い世界的なメジャースポーツです。
その両者を比べても、タトゥに関してこれだけの違いがあります。
自国の文化や習慣を外国と比較することには十分な価値がありますが、そうした言説のかなりの部分が「デマゴーグ」「ポジショントーク」「出鱈目」、あるいは「大間違い」だということはよく知っておきましょう。
「りゅうちぇる」のタトゥが話題になるよりもずっと以前にダルビッシュ有が、「外国(アメリカ)では普通なのに何で日本人はタトゥに偏見があるのかなあ」的なコメントをしていましたが、これなど論外の知識・認識・見識不足の発言です。
そりゃあダルビッシュの周囲、つまりMLBの選手の間でタトゥは「普通」なのかもしれないけれど、ある程度社会性を求められる場所ではタトゥは歓迎されないでしょうし、例えばハリウッドスターででっかいタトゥを体の至る所に施している人などほとんどいません。

わたしは「タトゥ自体をダメ」と主張しているわけではないのです。
「大きなタトゥを入れるなら、それなりの覚悟を持ってやるのが当然ではないか」と言っているのです。
もちろん歴史的・伝統的にタトゥを入れて当然の文明もあります。
しかしそれは別の話です。
例えば任侠映画の中で唐獅子牡丹を背負った高倉健が、「入れ墨してるからって、偏見の目で見ないでくれ!」なんて言うのはおかしいでしょう。
かつてプロレスラーでもタトゥが珍しかった時代に、両腕に大き目のタトゥを入れていたハーリー・レイスが、「どうしてタトゥを入れてるからって差別されるのかなあ?こんな偏見だらけの世の中、変えてやる!」なんてことは思ってもいなかったはずです。
そうなんです、自分の意志でわざわざ「色眼鏡で見られること確実」なものを入れておいて、「差別だ、偏見だ、こんな社会じゃいけない!」なんていう言葉の中に深刻な「無知」と「甘え」を感じてしまうのですね。

この前フランス人の友人(フェノン)にこの件についての意見を尋ねたのですが、とても興味深い話が聴けました。
また別の機会にお話ししましょう。

「タトゥ(入れ墨・刺青)」について少し話は逸れますが、昭和のエロ本などを学級的に(笑)眺めてみると、タトゥをした女性のヌードもけっこう目にしたのですね。
これはまさしく「嗜好」の問題なのですが、わたしは「タトゥをした女性」・・・ちょっとダメなのです。
はい。
これは偏見でも差別でもなく、個人的な「女性の好み」の話なので、お間違えなきように。

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いっぷく

入れ墨については、自己表現の一つだと思いますが、どういう思いか本人に聞いてみたいですね。というのは、少なくとも掘りたての段階で偏見だハチノアタマだと自己正当化に熱中するような人は、実は確固たる信念があるのか疑問だとおもったからです。確固たる信念があったら、それはもう彫らずにはおれないという心境ということですから、他人が顔をしかめようが、目引き袖引きでプレッシャーをかけてこようが、ネットで批判を書かれようが、そんなことは関係ないはずです。偏見だと八つ当たりしているのは、要するに世間の評価が芳しくなかったから動揺しているのかなという気もします。そんな世間の顔色をうかがって自己防御に汲々としているようでは、そいつはいずれ後悔して入れ墨を落とすことになるのでしょう。
たとえば先日の繰り返しになりますが、東京の東興業(いわゆる安藤組)は入れ墨、詰指、盃などはすべて禁止にしていたそうですね。盃は内々のことですが、入れ墨や詰指を禁じていたというのは、その意味や対外的なイメージを考えてのことではないかと思います。だから安部譲二さんはどちらもないですね。
その世界では日本一である、かの組の三代目も四代目も入れ墨はしていませんでした。つまり、任侠の世界が先駆者のようなイメージのある入れ墨ですが、しないことが「出世の妨げ」にはならなかった、つまりするかどうかは本質とはいえないということだとおもいます。

>私小説の話題とも繋がりますが、創作者にとって家庭環境や私生活は大きなインスピレーションの源でありまして、

その件ですが、「作家というのは、書くことをためらってしまうようなことでも書ききってしまう、現実に埋没しない強靭な精神力が必要」で、それが理解できない人は作家の適性がなく、批評家としてもいかがなものかという私の意見は、コメントを見る限り、必ずしも受け入れられているわけではないようです。
私がSo-netブログで、うまくやっていない理由の一つが、そのへんの「見解の相違」にあるのでしょう。
しかし、私が書いたことは、作家であれジャーナリストであれ当然のことで、それを否定してしまったら、テーマに不倫も犯罪も扱えなくなってしまうのです。
ジャーナリズムの場合は、実在の人間を扱うので名誉毀損との衝突は免れませんが、やはりそうなったとしても、触法をおそれず真実にどこまで肉薄できるか、という姿勢は失ってはならないと思いますので、決して「作文がうまいから」とか「本が好きだから」というだけで、読み応えのある書き屋にはなれないと思いますね。

その意味で、記事にもちらっと書きましたが、「平岩弓枝先生と橋田壽賀子を一緒にするな!平岩さんのドラマに、愛があるのは当然の事として、 何より、「色気」があるんです。 それに比べて橋田ドラマは、 ただ人間のドロドロを描いているだけ。 全く色気のいの字も感じられません。 私は断然平岩派です。」という意見が以前あったのですが、私は反論はしませんでしたが、こういうありがちな意見がひっかかるのです。
ひとつには、「ドロドロする設定」ではない平岩弓枝の「ありがとう」と、ドロドロした橋田壽賀子の「渡鬼」を比べて、橋田壽賀子に「色気がない」というのはそもそもフェアな比較かという疑問があるとともに、じゃあ平岩弓枝に「現実に埋没しない強靭な精神力が必要」とする実績があるのか、「ドロドロ」を書ききる毒気の才は作家に必要ではないのか、ということです。これは、平岩弓枝がダメだということではなくて、個人的な好き嫌いを否定しているわけでもなく、比較すること自体に疑問があるのと、比較するのならフェアにやんなよ、というだけのことですけどね。
by いっぷく (2018-09-03 02:32) 

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