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●山田姉妹へのメッセージ「音楽の根源とはっちゃけ」 [「言葉」による革命]

●山田姉妹へのメッセージ「音楽の根源とはっちゃけ」

末尾ルコ「音楽の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

(2月22日のメッセージです)

とても素敵で、しかも斬新なコンサートだったのですね。お二人がご参加になるコンサートのお話を伺っていると、いつも「音楽そのもの」について思考が深まり、同時に新たな気持ちにさせていただけます。それにしても、特に麗様の「はっちゃけ」・・・ももクロメンバーかと思いました(笑)。RUKO


>全国各地でお届けできたら

これはぜひ、継続的に催していただきたいし、どんどん開催場所を広げていってほしいです!
世界中のほとんどの人々が音楽鑑賞を愉しんでらっしゃると思いますが、音楽がどこでも君にできる芸術であるだけに、つい「慣れ過ぎてしまう」傾向があります。
だから、お二人のような「格別の音楽」を聴く時間はとても大切なのですね、どなたにとっても。
(世の中に、ここまで美しい音楽があったのか・・・)という驚きと接することができるわけですから。
さらに今回のようなご企画を催してくださるのはもうたとえようがないほど素敵なことだと思うのです。
「すぐに」とはいかないでしょうが、お二人のBDやDVDもいずれ発売されたら最高の幸せです。

それにしても素敵な素敵な素敵な「はっちゃけ」!
華様の薫り立つようなエレガンスはっちゃけも素晴らしいし、麗様ときたら、ももクロかバレリーナかと見まがうような、麗しのポージングを見せてくださっておりますね!RUKO

●「言葉を語れ
美のように
戦士のように」


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革命・芸術 末尾ルコ

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●『君の膵臓を食べたい』『潔く柔く』『覆面系ノイズ』だけじゃない、日本映画に氾濫する「号泣・絶叫シーン」で満足する「若い人たち」の感性を検証する。 [「言葉」による革命]

●『君の膵臓を食べたい』『潔く柔く』『覆面系ノイズ』だけじゃない、日本映画に氾濫する「号泣・絶叫シーン」で満足する「若い人たち」の感性を検証する。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を磨くレッスン」

「感動」という言葉、昔からあまりに容易に使われ過ぎてますよね。
ま、わたしもこの言葉、使わないでもないけれど、しかし極力使わないようには気をつけている。
あまりに漠然としているというもあるし、なにせ濫用され過ぎている。
「感動」という言葉自体に罪はないのですがね。
そして、「何に対して感動してきたか」で、まあちょっと意地悪な言い方にはなるけれど、「その人がどういう人か」、かなり分かるのですね。
「すべて分かる」とまでは言いませんよ。
そして、(あ、この人のレベルが分かった)と高を括った人のレベルが低かったら、「分かった」こと自体が見当外れだったなんてこともよくあります。
「レベル」っていう言葉も敢えて使いましたが、実は危険な言葉なんですよね。
大雑把に使うべきではない。

と、お話は込み入ってきますので、「感動」という言葉に戻りますと、おそらく昨今の

「俳優がクライマックスで号泣・絶叫で、さあ、泣いてくださいよ、泣けますよ、涙活ポイントはここですよ!」

という映画を観て本当に泣いている人たちはきっとそれを、「感動」と思っているのだおるなと、それでいいのかな、いや、いけない、と主張したいわけですわ。

まあ最近観た日本映画をいくつか挙げてみても、
『君の膵臓を食べたい』
『潔く柔く』
『覆面系ノイズ』

など、しっかりと号泣シーンないし絶叫シーンが用意されていて、ぶっちゃけ、(唖然)とするわけです。
さらに正直に書けば、わたしの感覚では、

「いきなり汚水を飲まされたような気分」に。

しかし多くの国民、とりわけ女子中高生たちがこうした映画の号泣・絶叫シーンで涙を流し、「乾燥した」、いや「感動した」と思い込んでいるわけなのである。

「汚水を飲まされた感覚」と「感動したという感覚」の差は、いかにも大きい。
ひょっとして昭和から生き抜いてきたわたしの感性が古びてしまい、劣化しているのか!・・・なんてことは、一切思わないです、実際問題。
まあ結論から言えば、昨今の映画(号泣・絶叫シーン付)は表現としてレベルが低過ぎる。
そうしたシーンに涙を流し、(感動しちゃった!)と信じてしまう感性・感覚も、あまりに未熟であると思いますね。

ではなぜ、今の若い人たちはこうした稚拙な表現で「感動した」と思い込めるのか。
あ、でもおそらく「若い人たち」だけじゃないでしょうね、30歳以降の人たちでも、「号泣・絶叫シーン」を今か今かと待っている人たちもきっと多くいるのでしょう。
ただ、ここは「若い人たち」に話を絞って考えてみますと、少なくとも2つの原因はあるでしょう。

1、 ほとんどの10代は、取り合えず稚拙な表現で満足してしまうものである。
2、 子どもの頃から、高度な、あるいは洗練された表現に接する機会がなかった。
はい。
ま、この問題、国家の根幹に関わることでありますので(いや、冗談抜きで)、今後もテーマとして取り上げていきます。

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