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●綾野剛のファンであれば、綾野剛出演映画を観るべきなのだが。 [「言葉」による革命]

●綾野剛のファンであれば、綾野剛出演映画を観るべきなのだが。

末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」

綾野剛は朝ドラに出演してから日本全国で一般の人たちにも知られるようになり、「俳優が知名度を上げる」という点のみにおいては「朝ドラ恐るべし」なのだけれど、この状況をわたしは当然いいものとは思っていない。
それはさて置き、「朝ドラで有名になった俳優」は数多いが、ざっくりと「完全なぼっと出」と「もともと映画や舞台でかなりの実績がある」の2通りのタイプに分けることができ、綾野剛は当然後者である。
で、綾野剛の場合、大きく知名度を上げた後もその基本スタンスは変わらずに、インディを中心に様々な映画へ出演し続けている。
その中にはいわずもがなの過激な内容の作品もかなり多く、と言うか、テレビドラマなどでヌルい役を演じれば演じるほど、過激な映画出演も増えているような気さえするが、実は映画というものは真正面から取り組んだ作品は、現在の社会常識の中では「過激」に捉えられるような内容になってしまうだけで、実はこの「現在の社会常識」の方がおかしいのである点注意が必要だ。(つづく)

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極限の愛、日常の愛、その言葉 2017年8月19日 [愛の景色]

「無」と「有」と「無」と
「愛」の関係と
「絶対的な有」について
観照す

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「今も心地よい、セルジュ・ゲンズブールの歌。」2017年8月19日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「今も心地よい、セルジュ・ゲンズブールの歌。」

末尾ルコ「音楽で知性と感性を鍛えるレッスン」

わたしの車、いまだにカセットテープが聴けるのです。

で、10月のある日、セルジュ・ゲンズブールのベスト盤を聴きながら運転をした。
いいなあ、ゲンズブール。
もちろん毎日聴くと飽きてしまう。
しかしふと思い出した時に聴いてみると、今でも実に心地いいし、全然古くない。
ポップでメロディアス、どの曲もアレンジもいい。
しかし最も重要なのはゲンズブールの声だ。
深く艶があり、セクシー。
重くなく軽くもなく、その声が軽い曲想の歌に絶妙に絡みつく。
セルジュ・ゲンズブール、フォーエバーだぜ!

●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!

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●浅野忠信、ドラマ『刑事ゆがみ』に出演、が、『ザ・インタビュー』の文脈では? [「言葉」による革命]

●浅野忠信、ドラマ『刑事ゆがみ』に出演、が、『ザ・インタビュー』の文脈では?

末尾ルコ「映画で知性と感性を鍛えるレッスン」

BS朝日の『ザ・インタビュー』のゲストに浅野忠信が出演していた。
浅野忠信は、このところ「テレビドラマもどんどん出てもいい」的な発言があったので、(どうなのか・・・)と複雑な気分だったが、『ザ・インタビュー』を観て、その真意がよく理解できた。
つまり、「すべては映画のために」なのである。
この10月、フジテレビ地上波で、『刑事ゆがみ』という連続ドラマが放送され、浅野忠信は主役で出演するそうだが、『刑事ゆがみ』その文脈で観ればいい。
『ザ・インタビュー』で強調されていた浅野忠信の言葉、「もっと本気で映画を作りたい」の意味を噛み締めながら。

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●子どもの頃のあれとあれは、時にセックス以上の快感であったはずだ。 [「言葉」による革命]

●子どもの頃のあれとあれは、時にセックス以上の快感であったはずだ。

末尾ルコ「エロティシズムの話題で知性と感性を鍛えるレッスン」


この前、次のような文章をアップしたのをご記憶の方も多いだろう。

・・・・・・

漫画の方はやや丸っこいタッチの『タイガーマスク』は、テレビアニメではラフな線の劇画タッチになるのだが、どうしてもしょっちゅう、「血がドバッ」なシーンがあって、わたしは正視できなかった。
それが時を経て、本物のプロレスの流血戦で盛り上がるようになるとは夢にも思わなかった幼年時代だ。
『ゲゲゲの鬼太郎』は、オープニングのテーマ曲のイントロで、「ひゅ~~どろどろ」てき音がかかるのだが、そこだけでビビりまくっていた。
そしてもう一つ重大なことを述べておこう。
それは「怖い」ではなく、「恥ずかしい」という感情についての話だが、わたしは幼少時、

『魔法使いサリー』が

恥ずかしくて、家族の者が部屋の中にいる時に、正視できなかったのである。
特にあのオープニングテーマが。

・・・・・・

で、『魔法使いサリー』の、特にオープニングテーマ曲が恥ずかしくて正視できなかったということに関連してお話を続けようと思うが、なにせあの、弾けるような「少女な」歌がかかっている画面を自分が見ているところを親に見られるわけにはいかなかったという心理があった。
たとえ親であっても、わたし自身が「女の子に関心がある」と思われたくなかったのだ。
もちろん女の子と話ができなかったとか、そういうことではない。
わたしはどちらかと言えば、女の子と仲良くするタイプの子どもだった。
しかしそれでも、「あくまで友達として仲良くしている」という前提でなければならず、「特定の好きな対象として女の子を意識している」と思われてはならなかったのだ、少なくとも小学3年生くらいまでは。
実はわたしは保育年の頃から数人(笑)、特定の女の子が好きだったのだけど、「~ちゃんを好き」などという情報は絶対に気づかれてはならないトップシークレットだったのである。
とは言え、「気づかれてはならない」情報だからこそ、心のどこかに「気づかれたい・気づかせたい」というやきもきしたじれったくも嬉し恥ずかしい心理がもちろんあった。
しかしこの、「言えないけど、言いたい」~「言いたいけど、言えない」~「気づかれてはいけないけど、気づかれたい」という子どもながらに複雑な心理は、それが容易に公にできないことだからこそ、ちょっとしたことで恋心が天にも昇るような炸裂した気分を味わうことができる。
その一つが、「席替え」である。
普段(好き)という気持ちは素直に表せず、だから容易に話しかけることもできないだけに、「席が隣(あるいは前か後ろ)になる」という状態は、ほとんど「同じ家で暮らし始める」ような快感があった。
もう一つがそう、フォークダンスの時間であり、目当ての女の子が少しずつ近づいてくるあのスリルと興奮は、小学生時代のハイライトと言ってもいい。
好きでもない女の子の手の感触は単に皮に覆われた肉(笑)に過ぎないけれど(ま、男の子が相手でもそうですが)、好きな女の子の手の感触というのは、首筋から踵まで痺れるような、子どもなりの性的な興奮があったのである。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、鈴虫」篇。2017年8月19日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、鈴虫」篇。

「猫、鈴虫」

ガレージの蟷螂
では叢の中に鈴虫も?
黄金虫と斑猫の光跡を辿った男
ロバート・グラスパーを聴きながら、
思い出してみよう

思い出してみよう
思い出してみよう
思い出してみよう

それが幽玄というものなのか?
あるいは有限??

・・・・・・

ぼくの素敵なネコの声、
鈴虫よりも
綺麗な響き

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

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