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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ「スウェーデン料理ヤンソンの誘惑と『ゴールデンカムイ』辺見和雄の身欠きニシン」。2017年8月28日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ「スウェーデン料理ヤンソンの誘惑と『ゴールデンカムイ』辺見和雄の身欠きニシン」

末尾ルコ「食と漫画で知性と感性を鍛えるレッスン」

アリシア・ヴィキャンデルはスウェーデン人。

スウェーデン料理と言えば、「ショットブラール」。
苔桃ジャムとともにいただくミートボールである。
そしてインパクトがあるのが、「ヤンソンの誘惑」。
「ヤンソンの誘惑」という名の料理である。
玉ねぎとアンチョビを使うグラタン料理。
アンチョビはニシンのもの。
ニシンと言えば、「身欠きニシン」を思い出すわたしだ。
「身欠きニシン」とはニシンの干物であるけれど、わたし自身これを食したことがあるかどうか定かではない。
ではなぜ思い出すのか?
それは漫画『ゴールデンカムイ』の登場人物の一人、刺青人皮の辺見和雄が身欠きニシンや白米を供したからだ。
『ゴールデンカムイ』の登場人物の中でも変態殺人鬼辺見和雄は出色のおもしろさだ。
辺見和雄は弟が猪に食われた現場を子どもの時に目撃し、「自分も徹底的に抗いながら、絶望の泥沼の中で殺されたい」と願望するようになる。
と書くと、(どんなグロテスクな殺人鬼なんだ?)と想像するが、そこは漫画。
辺見和雄がなかなかカワイイのだ。
そして単純な線だけで、その男の表情を絶妙に描き出している画力にも注目!

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●末尾ルコ「愛について」の根源。 [愛の景色]

●末尾ルコ「愛について」の根源。 それでは 「愛とは何か」 説明できますか? 例えば、小学生に対して。
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●「父親がプロレスの台本を頼まれた」などとほざいた中学時代の鼻持ちならない同級生について。 [「言葉」による革命]

●「父親がプロレスの台本を頼まれた」などとほざいた中学時代の鼻持ちならない同級生について。

末尾ルコ「プロレスの話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

「馬場の16文らあ、絶対効かん!マスカラスのフライング・クロス・チョップは効くけんど」
中学時代、わたしと同学年だった、小柄で知的とは言い難い男子生徒の、今でもわたしの心に残っている名言の一つである。
大人であれ子どもであれ、わたしの周囲にしっかりした知識と見識、あるいは分析癌を持ってプロレスを観ているほとんどおらず、プロレスを小馬鹿にして勝手に優越感に浸っている者や、実に素朴にテレビ観戦している者などがほとんどだった。
ただ、現在と大きく違うのは、プロレスが社会に浸透していただけに、積極的な興味を持っていなくても、「プロレスに対しては何か言う」人間が多かったという点である。
冒頭に挙げた、「馬場の16文らあ、絶対効かん!マスカラスのフライング・クロス・チョップは効くけんど」という発言は、かなり素朴にプロレスを観ている生徒が発したものだけれど、馬場の16文キックに対しては眉唾だと思っていても、マスカラスのフライング・クロス・チョップに対しては本気で必殺技だと信じており、かける側の体重が外側へ逃げてしまうあの技がそんなに効くとはとても思えなかったけれど、素朴な同学年性の夢を壊すつもりはなく、わたしは微笑を浮かべながら、「うんうん、まあそうやにゃあ(←ナチュラルな土佐弁)」と頷いていたものだ。
しかし人様が好きで楽しんでいることを平気でディスる連中の神経はどうなっているのだろうか。
わたしが子ども時代、「プロレスとプロレスファンに対しては、自由にディスっていい」と信じていた人間たちのいかに多かったことか。

一人の同級生の男がいて、そいつは趣味から性格から非常にソリが合わず、今でも思い出すとムカつくことが多いのである。
まあ中学生の分際で「中途半端なスノッブ」という男であって、実は様々な知識などはお粗末なものだったけれど、やたらとプライドだけは高くていつも辟易させられた。
もちろんそいつはプロレスをなめ切っていて、ある時こんなことを言ったのをよく覚えている。

「プロレスらあインチキやか。俺の父さんがプロレスの台本書いてくれいうて頼まれたことあるがぞ」

・・・しかしこの男の父親は普通の高校教師であり、しかも高知在住である。
一体どこのプロレス団体が高知の一高校教師に「台本執筆」を依頼するというのか?

とは言え、「プロレスファンである」という状況は、「人間観察」にも最適だったと、今となっては思う。
そして今のプロレスファンは、プロレスが一部マニアの間のものでしかないだけに、「人間観察」の機会にもならないであろう点、とても損をしていると言えるのである。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、音楽」篇。2017年8月28日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、音楽」篇。

「猫、音楽」

マニュエル・ルグリが
夢の中に現れた夜
MはYouTubeで

La Dame aux Camélias Aurélie Dupont and Manuel Legris

Jason Moran & Robert Glasper at Blue Note Festival FULL CONCERT Full HD 1080p

John Zorn - Electric Masada Live

を観た、聴いた

・・・・・・

ぼくの素敵なネコと
最高の音楽を
一緒に愉しみたいのさ!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

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●現在「映画的演技」世界屈指の名手、ヴァンサン・ランドンの『ティエリー・トグルドーの憂鬱』。 [「言葉」による革命]

●現在「映画的演技」世界屈指の名手、ヴァンサン・ランドンの『ティエリー・トグルドーの憂鬱』。

末尾ルコ「映画の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

今までにも何度か書いているけれど、フランスの名優ヴァンサン・ランドンの「映画的演技」が実に心地いい。

1959年7月15日生まれのヴァンサン・ランドンは、現在名実ともにフランスを代表する俳優の一人であり、世界的に見ても、「映画的演技」の名手の一人だと言える。

ではヴァンサン・ランドンのどこがとりわけ「映画的演技」なのか。

簡単に言えば、表情だけで、時には目の表情だけで、実に細やかな感情表現ができる点である。
カンヌ国際映画祭で男優賞、セザール賞で主演男優賞をヴァンサン・ランドンにもたらした『ティエリー・トグルドーの憂鬱』でも、台詞は極めて少ない。
しかし鑑賞者はヴァンサン・ランドンの「憂鬱」や「憤懣」に釘付けになるわけだ。

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極限の愛、日常の愛、その言葉 2017年8月27日 [愛の景色]

だから
あなたには
どんなことも
知っていてもらいたいから

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〈「言葉」による革命〉・・・●アリシア・ヴィキャンデル、スウェーデン料理、名前の発音。2017年8月27日 [「言葉」による革命]

●アリシア・ヴィキャンデル、スウェーデン料理、名前の発音。

末尾ルコ「映画俳優演技論」

スウエーデン出身のアリシア・ヴィキャンデル。
と言うか、わたし時にヴィキャンデルを「デンマーク出身」と勘違いすることがあったような。
アリシア・ヴィキャンデルを一気に世界のスターにした映画『リリーのすべて』がデンマークの話だったこともあるかもしれないし、共演もしているマッツ・ミケルセンがデンマーク出身だということもあるかもしれない。
はい。
アリシア・ヴィキャンデルは、スウェーデン出身です。

スウェーデンは映画史上に輝く、グレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマンの2大大大映画女優を輩出しており、映画監督もイングマル・ベルイマン、ラッセ・ハルストレムとか。
そう言えば、スウェーデン映画に『みじかくも美しく燃え』というのがあって、監督はボー・ヴィーデルベリで挿入曲にモーツァルトの『ピアノ協奏曲第21番』がとてもフィットしていて・・・。
そしてわたしの最近の愛読書である『バラバ』の原作者ペール・ラーゲルクヴィストもスウェーデン人のノーベル文学賞作家。
かようにスウェーデンは芸術文化レベルの高い国なのである。
もっとも、(イプセンもスウェーデン人だったよなあ~)とふと思ったが、ノルウェー人だった。
確認は大切です。

ところでアリシア・ヴィキャンデル。
日本では、「アリシア・ヴィカンダー」と表記するメディアもあるが、例えば、YouTubeで「Alicia Vikander Correctly Pronounces Her Name」とタイトルが付けられた動画を見てみると、本人が「こう発音するんです」と自分の名前を言っており、日本語ではほぼ

「アリシア・ヴィキャンデル」で間違いない。

「ヴィカンダー」より「ヴィキャンデル」の方が語感がずっといいし、各メディアとも「ヴィキャンデル」に統一すべきだ。

●原稿依頼などは、気軽にサイドバーのアドレスへご連絡を!

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●末尾ルコ詩D「聖バルバラと」 [「言葉」による革命]

末尾ルコ詩D「聖バルバラと」

●聖バルバラとエマニュエル・マクロンについて
また調べてみた、そんな午後
誰のために?


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●80年代のアイドル菊池桃子はいかに人気を獲得し、いかにアッと言う間に「ラ・ムー」へと至ったか? [「言葉」による革命]

●80年代のアイドル菊池桃子はいかに人気を獲得し、いかにアッと言う間に「ラ・ムー」へと至ったか?

末尾ルコ「昭和芸能史の話題で、知性と感性を鍛えるレッスン」

現在の菊池桃子の「戸板女子短期大学の客員教授」というポジションについては、わたしはフォローもチェックもしていないので何も語らない。
あくまで「80年代にアイドルとして大成功し、比較的短期間で急降下した」菊池桃子に関してのプチエッセイを試みているのである。
と言うのも、わたしは80年代、菊池桃子をかなり気に入っていたのだ。

何よりも菊池桃子には従来のアイドルにない「特別感」があった。
日本のアイドル歌手というのはそりゃあ一般の女性たちと比べれば容姿は優れている場合は多いけれど、よく見ればけっこう(容姿が)ヘンな人も多いのが普通であり続けており、「それが日本のアイドルだから」という世界であるわけだが、菊池桃子がメディアに現れ始めた頃の印象は、「アイドルとしては例外的に整った容姿をしている」というものだった。
雰囲気も、頭はよさそうには見えなかったが、話し方や立ち居振る舞いに上品さがあった。
プロポーションもアイドル歌手としては比較的慎重があり、しかもデビューしてからしばらくは(歌う時に)長いスカートしか履かなかったことから、逆に男性の想像力を刺激していたのだと思う。
まあ簡単に言えば、わたしも菊池桃子の容姿には大いに魅力を感じていたのだ。
ところが恐るべきことに(笑)、菊池桃子は7歌においても演技のおいても、「何もできない」に等しかった。
「いかにアイドル」とは言っても、(そりゃあ、ないよ・・・)と文句の一つもつけたくなるような、スカスカ空気が抜ける如き歌唱法。
それを作曲家の林哲司は、「声に色がある」と表現していたが、いかにも無理のある説明だった。
演技に関しても、「何もやってない」と同じような状態で、それでもインパクトある顔だちであれば生き残る道はあったかもしれないが、「整っていて、無難なことしかしない」キャラクターでは女優としてやっていけるわけがない。
1989年に至り、「ラ・ムー」というロックバンドのヴィーカルを務める旨発表され、何度かテレビで歌う姿を見かけたが、日本の芸能史には様々な「不可解ロック」が出没するけれど、「不可解さ」と「寒さ」において、「ラ・ムー」はまごうことなきトップクラスだと断言できる。

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〈「言葉」による革命〉・・・●末尾ルコ詩D「猫、光」篇。2017年8月27日 [「言葉」による革命]

●末尾ルコ詩D「猫、光」篇。

「猫、光」

ベートーベンの「月光」が
突如流れた
あ、今も流れている
聴きなれた「月光」
かと言って、
しょっちゅう聴いているわけではない
「月光」
そんな距離にある
「月光」だからこそ
いきなり流れ始めると
一気に芯まで
浸透するのか

・・・・・・

あらゆる光を集めて
ぼくの素敵なネコへ!

(毎日、「末尾ルコ詩D」を書いてみましょう!わたしの創ったものを写すのではなく、ご自分で創ってみるのです)

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