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●「母連れ狼」末尾ルコ(アルベール)、うたちゃん(母)との日々~スタバAにはサンドラ・ブロックを~『たかが世界の終わり』、スター俳優たちの「顔」。 [「言葉」による革命]


わたしはアートでロックでハードボイルドでポップでジェントルな末尾ルコと名乗り、しかし地元ではふつうアルベールなのですが、「初恋のヒヨコ」でもあります。原則いつも母(うたちゃん)と行動を共にし、車いすを押しておるそのイメージから「母連れ狼」とも名乗ります。
そう、最高の介護を超えるべく。

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★映画は最高の「会話」の題材となる。
そして人間、「会話ある人生」と「会話無い人生」とはまったく違う。
 
このテーマ、わたしの宿願と言っていいですが、深め、広げ、各方面にアピールしていきます。

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毎日ですね、誰かと、映画か音楽か本(読書)に関する会話を試みてください。
つまりわたしが言うところの「3種の神器」に関する会話ですね。
映画か音楽か本(読書)、そのうちのどれか、あるいはそれらすべてなら言うことない。
芸術は基本「独りで鑑賞」するものですが、それを「自分の中」に留めず、「外へ出す」ことで新たな、そして時に大きな展開が生まれます。

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Mと同じ店舗のAは『オーシャンズ』シリーズが好きと言ったので、
と言うか、聴けば映画鑑賞が好きな人、特に実写ね、けっこういるぜ。
で、ぼくは『オーシャンズ』の中では女優たちがやってくれる『オーシャンズ8』が一番好きで、彼女もそれを「好き」だと言ったから、『オーシャンズ8』の中心サンドラ・ブロックの主演作、
『スピード』
『デンジャラス・バディ』
『しあわせの隠れ場所』
『ザ・ロストシティ』を
書いて渡した。

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グザヴィエ・ドラン監督の『たかが世界の終わり』は「家族の物語」で、映画はその家族の中だけで展開される。
母がいて、長男がいて、長男の妻がいて、次男がいて、次女がいる。
『たかが世界の終わり』はこの家族の中だけで展開される映画だ。
しかし、母はナタリー・バイであり、長男はヴァンサン・カッセルであり、長男の妻はマリオン・コティヤールであり、次男はガスパー・ウリエルであり、次女がレア・セドゥだ。
取り敢えず、映画史上最高に贅沢な「家族」の一つである。

『たかが世界の終わり』でグザヴィエ・ドラン監督は、一つの家族、それは母はナタリー・バイであり、長男はヴァンサン・カッセルであり、長男の妻はマリオン・コティヤールであり、次男はガスパー・ウリエルであり、次女がレア・セドゥという恐るべき「家族」なのだが、90分強の作品中、この人たちの演技をほとんどアップの連打によって抽出する。
そのテンポが心地いいのだ。
ロングの長回しで人間性を抉り出す映画もけっこう。
しかしシンプルにこう感じることもある、(もっと俳優たちの顔をよく観たいのに)と。
『たかが世界の終わり』はフランス映画界の至宝たちの「顔」を、これでもかこれでもかとアップで観客に叩きつける。
そして「俳優のアップ」こそ、舞台では味わえない「映画ならではの快楽」の重要な一つである。

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